阿比良比売・吾平津媛(アヒラヒメ)

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アヒラヒメ

漢字・読み阿比良比売・吾平津媛
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阿比良比売・吾平津媛(アヒラヒメ)

古事記では阿比良比売(アヒラヒメ)。
日本書紀では吾平津媛(アヒラツヒメ)。
大隅国に姶羅郡(アイラグン)というのがあった。これが現在の鹿児島県鹿屋市のあたりだろうと言われている。ただし姶羅郡という名称は鎌倉時代には消える。それでこの辺りには「アイラ」という地名はない。

一方、現在、鹿児島に姶良市(アイラシ)という市がある。姶良市は2009年に加治木町・姶良町・蒲生町が合併して生まれた市。ではこの辺りがアヒラヒメの関係地ではないか?と思ってしまいそうだが、このあたりは昔から「始羅郡(シラグン)」と呼ばれていた。これが大隈国の「姶羅郡」と字がそっくりで混同するので、明治にどちらも姶良(アイラ)に統一された(どういうことかよくわからんぞ)。それで、姶良郡が現在でも残っているが、この地域はアヒラヒメとは関係ない。

宮崎県日南市材木町に吾平津神社がありますが、明治までは乙姫大明神と呼ばれていた。
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アヒラヒメの物語

神武天皇が東征に出る前に九州で娶った妻。記紀神話には名前が出るだけ。アヒラというのは九州の地名。現在の鹿児島県鹿屋市。神武天皇は九州の出身なので、現地で妻を娶ったわけです。タギシミミ命とキスミミ命の母親。二人が生まれてから神武天皇は東征に出発している。ちなみにキスミミ日本書紀には記述がない。古事記でもキスミミは名前が出るだけなので、略されてもしょうがないと思う。

神武天皇は大和で即位した後に、イスケヨリヒメ日本書紀では媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト))を新しい嫁に貰います。古事記では神武天皇の死後にタギシミミが、イスケヨリヒメを娶ります。つまり、息子が父親の若い後妻を嫁にもらうわけです。

これは神武天皇の息子であることが後継者の条件ではなく、イスケヨリヒメが権力の根本にあったからです。その後、タギシミミはイスケヨリヒメの子供達に殺されて、イスケヨリヒメの子供の一人、タケヌナカワミミが綏靖天皇に即位します。

別の見方をすれば、この物語は、「九州アヒラヒメ VS 大和イスケヨリヒメ」という縮図にすることもできます。そんで、勝ったのは「大和イスケヨリヒメ」となります。アヒラヒメは物語では陰が薄いんですが、実は重要人物なのかもしれません。
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古事記からの引用

イワレビコの女性関係
イワレビコ命(神武天皇)が日向にいたときに、阿多の小椅君(オバシノキミ)の妹の阿比良比売(アヒラヒメ)と結ばれて、生んだ子供が、多芸志美美命(タギシミミノミコト)、次に岐須美美命(キスミミノミコト)のニ柱です。

日本書紀からの引用

即位前紀−1 十五歳で太子(=日嗣の皇子)となり
15歳で太子(=日嗣の皇子)となりました。その後、日向の国の吾田邑(アタノムラ)の吾平津媛(アヒラツヒメ)を娶って妃として手硏耳命(タギシノミミノミコト)が産まれました。
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