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ヤソタケル
漢字・読み | 八十健・八十梟帥 |
八十健・八十梟帥(ヤソタケル)
古事記では八十健(ヤソタケル)。
日本書紀では八十梟帥(ヤソタケル)。
「ヤソ」は漠然とした最大数・無限、という意味で、「すごい」もしくは「大人数」という意味。これはかつて「80」が最大値だった時代の名残。健(タケル)は武力を表す「強い」と言う意味の言葉。よってヤソタケルは「すごい武力の人」「大勢の武人」と言う意味です。日本書紀の「梟帥」の梟はフクロウのこと。帥は率いる人…一言で言うならば「将」でしょうか。タケルと読んでいる以上は「強い」「剛力」「豪腕」といった武力を表す名前ではあるのですが、日本書紀の漢字から推察すると「山の民の将」と言うべきでしょうね。
日本書紀では八十梟帥(ヤソタケル)。
「ヤソ」は漠然とした最大数・無限、という意味で、「すごい」もしくは「大人数」という意味。これはかつて「80」が最大値だった時代の名残。健(タケル)は武力を表す「強い」と言う意味の言葉。よってヤソタケルは「すごい武力の人」「大勢の武人」と言う意味です。日本書紀の「梟帥」の梟はフクロウのこと。帥は率いる人…一言で言うならば「将」でしょうか。タケルと読んでいる以上は「強い」「剛力」「豪腕」といった武力を表す名前ではあるのですが、日本書紀の漢字から推察すると「山の民の将」と言うべきでしょうね。
参考八十神(ヤソカミ)
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解説
ヤソタケルは個人名ではなく、役職名や集団名と考えた方が自然です。
日本書紀では八十梟帥以外に、磯城八十梟帥・赤銅八十梟帥・熊襲八十梟帥も登場します。このうち熊襲八十梟帥は景行天皇の時代に登場していて、それ以外は神武天皇の時代の登場です。物語上、土蜘蛛と登場するタイミングが同じなんで、ヤソタケルと土蜘蛛(土雲)は、同じではなくとも近いニュアンスはあるのではないでしょうか。
日本書紀では八十梟帥以外に、磯城八十梟帥・赤銅八十梟帥・熊襲八十梟帥も登場します。このうち熊襲八十梟帥は景行天皇の時代に登場していて、それ以外は神武天皇の時代の登場です。物語上、土蜘蛛と登場するタイミングが同じなんで、ヤソタケルと土蜘蛛(土雲)は、同じではなくとも近いニュアンスはあるのではないでしょうか。
古事記からの引用
土蜘蛛のうなり声
料理人の不意打ち
そこから(エウカシを倒した宇陀の地)から、イワレビコは忍坂(オサカ)の大室に到着しました。
すると尾の生えた土雲(ツチグモ)という大勢の男たち…土雲八十建(ツチグモヤソタケル)…が岩屋で待ちうけて、うなり声を上げていた。
すると尾の生えた土雲(ツチグモ)という大勢の男たち…土雲八十建(ツチグモヤソタケル)…が岩屋で待ちうけて、うなり声を上げていた。
料理人の不意打ち
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日本書紀からの引用
九月甲子朔戊辰(一)天平瓮と嚴瓮と酒と嚴呪詛
九月甲子朔戊辰(二)椎根津彦と弟猾に変装させて
冬十月癸巳朔(一)神風の伊勢の海の大石にやい這い廻る細螺
己未年春二月壬辰朔辛亥(二)磐余邑の別説、と猛田・城田・頰枕田・埴安の地名説話
景行天皇(十二)熊襲八十梟帥の娘の市乾鹿文と市鹿文
9月5日。神武天皇は菟田(ウダ)の高倉山(タカクラヤマ)の嶺に登って、国中を眺めました。そのときに国見丘(クニミノオカ)の上に敵の八十梟帥(ヤソタケル)が居ました。
梟帥は多稽屢(タケル)と読みます。
また、八十梟帥(ヤソタケル)は女坂(メサカ)に女軍(メイクサ=女子の軍隊)を置きました。男坂(オサカ)に男軍(オイクサ=男の軍隊)を置きました。墨坂(スミサカ)に焃炭(オコシズミ=炭火)を置きました。この女坂・男坂・墨坂の地名はこういう由来です。
梟帥は多稽屢(タケル)と読みます。
また、八十梟帥(ヤソタケル)は女坂(メサカ)に女軍(メイクサ=女子の軍隊)を置きました。男坂(オサカ)に男軍(オイクサ=男の軍隊)を置きました。墨坂(スミサカ)に焃炭(オコシズミ=炭火)を置きました。この女坂・男坂・墨坂の地名はこういう由来です。
九月甲子朔戊辰(二)椎根津彦と弟猾に変装させて
神武天皇はまさに夢の教えを聞いて、その通りにしようとしました。すると弟猾(オトウカシ)が天皇に言いました。
「倭国(ヤマトノクニ)の磯城邑(シキノムラ)には磯城八十梟帥(シキノヤソタケル)がいます。
また、高尾張邑(タカオハリノムラ)には赤銅八十梟帥(アカガネノヤソタケル)がいます。これらの者たちは皆、天皇に抵抗して戦おうと思っています。密かに天皇がこれに困っているのを知り、わたしも心配していました。
「倭国(ヤマトノクニ)の磯城邑(シキノムラ)には磯城八十梟帥(シキノヤソタケル)がいます。
また、高尾張邑(タカオハリノムラ)には赤銅八十梟帥(アカガネノヤソタケル)がいます。これらの者たちは皆、天皇に抵抗して戦おうと思っています。密かに天皇がこれに困っているのを知り、わたしも心配していました。
冬十月癸巳朔(一)神風の伊勢の海の大石にやい這い廻る細螺
冬10月の1日に天皇はその嚴瓮(イツヘ=土器の皿)の粮(オモノ=食べ物)を食べ、兵を整えて出発しました。
まず八十梟帥(ヤソタケル)を国見丘(クニミノオカ)で撃破して、斬り殺しました。この役(エダチ=戦い)で神武天皇には必ず勝利する意気込みがありました。そこで歌を歌いました。
まず八十梟帥(ヤソタケル)を国見丘(クニミノオカ)で撃破して、斬り殺しました。この役(エダチ=戦い)で神武天皇には必ず勝利する意気込みがありました。そこで歌を歌いました。
己未年春二月壬辰朔辛亥(二)磐余邑の別説、と猛田・城田・頰枕田・埴安の地名説話
ある人は言いました。
「天皇は昔、嚴瓮(イツヘ=皿)に粮(オモノ=食べ物)を乗せて、神に捧げ物をして、軍を出して西の敵を征伐しました。
このときに磯城八十梟帥(シキノヤソタケル)がこの土地に屯聚(イワ=集まって、満ちて)み居ました。
屯聚居は怡波瀰萎(イワミイ)と読みます。
天皇と大きな戦いをしました。
ついに皇軍に敗れて滅んでしまいました。
それで磐余邑(イワレノムラ)と言うようになった」
「天皇は昔、嚴瓮(イツヘ=皿)に粮(オモノ=食べ物)を乗せて、神に捧げ物をして、軍を出して西の敵を征伐しました。
このときに磯城八十梟帥(シキノヤソタケル)がこの土地に屯聚(イワ=集まって、満ちて)み居ました。
屯聚居は怡波瀰萎(イワミイ)と読みます。
天皇と大きな戦いをしました。
ついに皇軍に敗れて滅んでしまいました。
それで磐余邑(イワレノムラ)と言うようになった」
景行天皇(十二)熊襲八十梟帥の娘の市乾鹿文と市鹿文
12月5日。熊襲(クマソ)を討つことを話し合いました、そこで天皇は群卿(マヘツキミタチ=部下)に言いました。
「わたしは襲国(ソノクニ)に厚鹿文(アツカヤ)・迮鹿文(サカヤ)という者がいると聞いた。この二人は熊襲の渠帥者(イサオ=勇ましい人)だ。衆類(トモガラ=仲間・部下)は多い。これを熊襲八十梟帥(クマソノヤソタケル)と言う。その鉾(ツワモノ)には敵うものがいない。師(イクサ)を起こさないようにすれば賊(アタ)を滅ぼすことは難しい。たくさんの兵(ツワモノ)を動かせば、百姓(オオミタカラ)が害を受けることになる。どうしたら、鉾刃(ツワモノ)の威(イキオイ)を借りずに……(つまり戦わずに)この国を平定したいものだ」
「わたしは襲国(ソノクニ)に厚鹿文(アツカヤ)・迮鹿文(サカヤ)という者がいると聞いた。この二人は熊襲の渠帥者(イサオ=勇ましい人)だ。衆類(トモガラ=仲間・部下)は多い。これを熊襲八十梟帥(クマソノヤソタケル)と言う。その鉾(ツワモノ)には敵うものがいない。師(イクサ)を起こさないようにすれば賊(アタ)を滅ぼすことは難しい。たくさんの兵(ツワモノ)を動かせば、百姓(オオミタカラ)が害を受けることになる。どうしたら、鉾刃(ツワモノ)の威(イキオイ)を借りずに……(つまり戦わずに)この国を平定したいものだ」
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