磐余邑の別説、と猛田・城田・頰枕田・埴安の地名説話

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己未年春二月壬辰朔辛亥(二)磐余邑の別説、と猛田・城田・頰枕田・埴安の地名説話

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原文

或曰「天皇、往嘗嚴瓮粮、出軍而征、是時、磯城八十梟帥、於彼處屯聚居之。(屯聚居、此云怡波瀰萎)。果與天皇大戰、遂爲皇師所滅。故名之曰磐余邑。」又皇師立誥之處、是謂猛田。作城處、號曰城田。又賊衆戰死而僵屍、枕臂處、呼爲頰枕田。天皇、以前年秋九月、潛取天香山之埴土、以造八十平瓮、躬自齋戒祭諸神、遂得安定區宇、故號取土之處、曰埴安。

現代語訳

ある人は言いました。
「天皇は昔、嚴瓮(イツヘ=皿)に粮(オモノ=食べ物)を乗せて、神に捧げ物をして、軍を出して西の敵を征伐しました。
このときに磯城八十梟帥(シキノヤソタケル)がこの土地に屯聚(イワ=集まって、満ちて)み居ました。
屯聚居は怡波瀰萎(イワミイ)と読みます。

天皇と大きな戦いをしました。
ついに皇軍に敗れて滅んでしまいました。
それで磐余邑(イワレノムラ)と言うようになった」

また皇師(ミイクサ)が立誥(タチタケビ=大声を出すこと)した場所を「猛田(タケダ)」といいます。
城を造った所を「城田」といいます。
また敵たちが戦い死んで伏せた屍(カバネ=屍体)が臂(タダムキ=「ひじ」のこと)を枕にしていた所を頰枕田(ツラマキダ)といいます。
天皇は前の年の秋九月をもって、天香山(アマノカグヤマ)の埴土(ハニツチ=粘土質の土)を取って、八十平瓮(ヤソノヒラカ)を作り、自ら齋戒(モノイミ=血や死の穢れや女性に触れずに清らかな生活をすること)をして、諸々の神を祀りました。それで区宇(アメノシタ)を静めました(=安定させました)。そこで土を取った場所を埴安(ハニヤス)といいます。
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解説

前段との違い
己未年春二月壬辰朔辛亥(一)土蜘蛛の誅殺には、「土地に皇軍が集まっていたから磐余になったよ」と書いてあるのに対してこのページでは「土地に敵の磯城八十梟帥(シキノヤソタケル)が集まっていたから磐余になったよ」と書いてあります。同じように見えてちょっと違う。皇軍が…というと地名が天皇に関わってついたことになりますが、磯城八十梟帥(シキノヤソタケル)が…というと天皇とは関係ありません。

でも天皇がその後は勝利したのだから、そんな別伝を残す必要は無いんじゃないか?と思うのですよ。勝利者が歴史を書き換えるのが世の常ってものですからね。ということは、磐余は単に「人が集まった賑やかな場所」という程度の意味で戦争とは関係なく、もともとそう言う名前があったじゃないか?と。

それで、どうして別伝を残したのかと言うと、嘘を書くと恨まれるから、ではないかと思うのです。日本人は死者を鎮魂しないと怨霊と成って呪うと考えていました。だから死人に口無しとばかりに嘘を書いて自分の手柄にしにくかったんじゃないか?と。この感覚が記紀の成立に大きく関わっていると思います。
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