土蜘蛛の誅殺

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己未年春二月壬辰朔辛亥(一)土蜘蛛の誅殺

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原文

己未年春二月壬辰朔辛亥、命諸將、練士卒。是時、層富縣波哆丘岬、有新城戸畔者。(丘岬、此云塢介佐棄。)又和珥坂下、有居勢祝者。(坂下、此云瑳伽梅苔。)臍見長柄丘岬、有猪祝者。此三處土蜘蛛、並恃其勇力、不肯來庭。天皇乃分遺偏師、皆誅之。又高尾張邑、有土蜘蛛、其爲人也、身短而手足長、與侏儒相類、皇軍結葛網而掩襲殺之、因改號其邑曰葛城。夫磐余之地、舊名片居(片居、此云伽哆韋)、亦曰片立(片立、此云伽哆哆知)、逮我皇師之破虜也、大軍集而滿於其地、因改號爲磐余

現代語訳

己未年の2月20日。
天皇の命によって、もろもろの将兵から精鋭を選びました。

このとき層富縣(ソホノアガタ=生駒市)の波哆丘岬(ハタノオカサキ=奈良市赤膚町)には新城戸畔者(ニイキノトベ)という人物がいました。
丘岬は塢介佐棄(オカサキ)と読みます。

また和珥坂下(ワニノサカモト)には居勢祝(コセノハフリ)という人物がいました。
坂下は瑳伽梅苔(サカモト)と読みます。

臍見(ホソミ=天理市?)の長柄丘岬(ナガラオカサキ=奈良県御所市長柄神社?)に猪祝(イノハフリ)という人物がいました。この三カ所の土蜘蛛は武力に頼んで、天皇に従いませんでした。
天皇は兵の一部を派遣して、全員を誅殺しました。

また、高尾張邑(タカオハリノムラ)にも土蜘蛛が居ました。
その人と成りはこうでした。
身長は低く、手足は長い。
侏儒(サキヒト=小人=バカ)と似ていました。
皇軍は葛(カズラ=ツタ植物)を編んで、それを使って襲って殺しました。それでその村を葛城(カズラキ)と名付けました。
磐余(イワレ)の土地の古い名前は片居(カタイ)といいます。
片居は伽哆韋(カタイ)と読みます。

または片立(カタタチ)といいます。
片立は伽哆哆知(カタタチ)と読みます。

皇軍はそうして敵を破り、大軍が集まって満たされました。
それで磐余(イワレ)と改名しました。
「満ちる」が古代日本語では「満(イ)はる」だったから
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解説

土蜘蛛とは?
大和の人たちは高床式の家に住んでいました。これは全員がそうだったというわけでは無いのでしょうが、それでも穀物を溜める倉庫はネズミ避けもあって、高床式で、権力者もやはり高床式だったのでしょう。それに対して、竪穴式住居しか無かった民族を、見下す意味で土蜘蛛と呼んだよう。
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