吾田(アタ)

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吾田

漢字・読みアタ
別名阿多・アダ
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概要

吾田(アダ・アタ・阿多)は鹿児島県西部の古い呼び名。古事記を編纂し始めたときはまだ大和朝廷に属していなかった。吾田鹿葦津姫(アタカシツヒメコノハナサクヤヒメ)や武埴安彦(タケハニヤスヒコ)の妻の吾田媛(アタヒメ)という具合に人物名に冠されます。

物語・由来

第九段本文―8吾田の長屋の笠狭の岬へ
膂宍空国(ソシシノムナクニ)を頓丘(ヒタオ)から良い国を探して通り抜けて、ついに吾田(アダ)の長屋の笠狭(カササ)の岬に着きました。

第九段一書(四)天忍日命の先導
そして日向の襲(ソ)の高千穂の槵日(クシヒ)の二上峯(フタガミノミネ)の天浮橋(アマノウキハシ)にたどり着き、浮渚在之平地(ウキジマタイラ)に立たせ、膂宍(ソシシ)の空国(ムナクニ)を頓丘(ヒタオ)から眺め見て、通り過ぎ、吾田(アタ)の長屋(ナガヤ)の笠狹之御碕(カササノミサキ)にたどり着きました。

第九段一書(六)—3玉飾りを揺らして機織りをする少女
ニニギの一行は)吾田(アタ)の笠狹之御碕(カササノミサキ)にたどり着きました。それで長屋の竹嶋(タカシマ)に上りました。

第十段本文−4俳優の民となるから命だけは助けて
それで、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)は言うがままに兄を許しました。その兄の火闌降命(ホノスソリミコト)は吾田君(アタノキミ)の小橋などの祖先です。

神武天皇即位前紀−1 十五歳で太子(=日嗣の皇子)となり
15歳で太子(=日嗣の皇子)となりました。その後、日向の国の吾田邑(アタノムラ)の吾平津媛(アヒラツヒメ)を娶って妃として手硏耳命(タギシノミミノミコト)が産まれました。

個人的コラム

なぜ優遇されるか?
アタは現在の鹿児島。このあたりの神話がニニギ→山幸彦と扱われることに「違和感」を感じることは無いでしょうか?? 古事記編纂当時に倭に属していないなら尚更です。

大和の文化の素地が「このあたり」にあったと考えるのが妥当ではないか?と思います。日本の神話はそもそも「ごった煮」ですから、このように阿多が神話に組み込まれていても異常とは言えないのですが、ニニギ→山幸彦のあとは、ウガヤフキアエズ、そして初代天皇神武天皇です。また神武天皇の妃の吾平津媛(アヒラツヒメ)は吾田邑(アタノムラ)出身と書いてあることから考えても神武天皇隼人出身と考えるべきでしょう。

つまり隼人が大和の文化の根だった。
だから隼人の神話を削れなかった。
また誰もが大和の文化の根が隼人だったと知っていた。
のでしょう。

もう一つ。
アタの地名が崇神天皇の時代に出て来ます。孝元天皇の子、武埴安彦の反乱の時、その妻として吾田媛が出て来ます。崇神天皇の時代でも大和は隼人から分離していない。これはもしかすると、大和朝廷が隼人の国の下にあったから、なのかもしれません。
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