崇神天皇

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崇神天皇

漢字・読みスジンテンノウ
別名御真木入日子印恵命(ミマキイリヒコイニエ)・御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)
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概要

生前の名前は、古事記では御真木入日子印恵命(ミマキイリヒコイニエ)。日本書紀では御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)。

御肇国天皇(ハツクニシラシメススメラミコト)という記述があることから「初めて統治した天皇」とされます。よって実在する初めての天皇が「崇神天皇」という意見は多く、神武天皇は崇神天皇の前半生ではないかとも。

物語・由来

オオモノヌシの祟りを鎮めた天皇
崇神天皇の治世で非常に多くの国民が死んでしまいました。そこで神の意志に伺いを立ててみると、三輪山の大物主(オオモノヌシ)の祟りであり、その子孫でのオオタタネコに祀らせれば、国は安らかに治まると言われます。そこで崇神天皇はオオタタネコを探し出し、鎮魂させることで祟りを解決しました。
四道将軍を派遣
大彦命(オオヒコノミコト)を北陸道に、武渟川別(タケヌナカワワケ)を東海道に、吉備津彦(キビツヒコ)を西道に、丹波道主命(タンバノミチヌシノミコト)を丹波(山陰道)に派遣しました。倭迹迹日百襲姫命の予言から武埴安彦(タケハニヤスヒコ)とその妻の吾田媛の反乱を察知し撃退しました。

個人的コラム

オオモノヌシと崇神天皇
大物主は三輪山周辺の神でした。ここに天皇がやってきて支配したのですが、そのときにこの土地の神を祀った…その経緯が崇神天皇と大物主の関係ではないか?と言われています。
つまり、天皇は「祀る側」の存在で、特別な神を祀っては居なかった事になります。分かりやすくすると、こうなります。
ある場所に神(=オオモノヌシ)が居て、そこの住民はその神を信仰はしていました。その神は穀物の神です。信仰はしていたのですが、多少お祭りをするとか、その程度でした。そこに新しい支配者(=天皇家)がやってきました。その支配者は、新しい神を押し付けるのではなく、その土地の神を祀りました。神を祀る祠というか、そういった宗教的な遺物を立てました。神社は当時は無かったのでストーンヘンジのような磐座(イワクラ)のようなものではなかったのかと。
新しい神を押し付けないことで、支配をスムーズに行いました。その中で「穀物神」だったものがその支配者を守る守護神へと変化しました。

守護神と祟りを起こす神がイコールというのは違和感がありますが、これは日本の「祀る」ということが「神様が起こらないようにご機嫌を取る」だと考えると理解できます。日本での神は、機嫌を損ねると、天変地異・疫病・不作を起こす存在です。だから、強ければ強いほど、つまり祟りやすい神こそが支配者にとって扱いやすい神でした。ジャイアン(オオモノヌシ)とスネオ(崇神天皇)の関係です。
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