大物主(オオモノヌシ)

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オオモノヌシ

漢字・読み大物主
別名大国主神・国作大己貴命・葦原醜男・八千戈神・大国玉神・顯国玉神
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概要

オオクニヌシの幸魂奇魂とされ、オオクニヌシと同一視されますが、その実は別の神様と考えた方がよいです。三輪山の神(=大神神社の神)であり、他にも様々な神社で祭られます。その本質は「モノ」の主。
日本人にとっては、この世の全ての形あるものには形のない霊魂が宿り、その霊魂は神であり「モノ」です。大物主というのは、この世の全ての「モノ」の根幹に関わる神なんでしょうね。古事記でも日本書紀でも、最初の天皇の皇后は大物主の血縁者のようですから、古代ではかなり有力な神だったようです。
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物語・由来

オオモノヌシが古事記に登場するのは、オオクニヌシの元からスクナヒコナが去った後に、途方にくれていると、海の向こうから輝きながらやってくる場面です。ただし、この場面では「オオモノヌシ」という名前は出てこず、「今は三輪山に居る」という記述です。三輪の神はオオモノヌシであることから、これがオオモノヌシ初登場とされます。

オオモノヌシとは?
オオモノヌシはオオクニヌシの幸魂・奇魂とされ、つまりのオオクニヌシと同一、もしくは一側面という設定ではありますが、オオクニヌシの元に「わたしはお前の幸魂・奇魂だ」とやってくる辺り、本来は別の神様だったものが、何かの都合――おそらくは政治的な都合で――変更されたと思われます。
●細かいこと言えば、大国主とパートナーとなった神は、古事記では「三輪山にいる」と書いてあり、日本書紀によれば大国主の「幸魂奇魂」であって「三諸山に住もう」とは書いてあるんですが、どこにも古事記にも日本書紀にも「大物主(オオモノヌシ)」という名前は出てきません。
●なので下の引用部分には大国主との国づくりに関する部分が無いんです。



祟り神としての大物主
崇神天皇(10代)の時代になると、疫病は流行り、国民のかなりの数が死んでしまいます。崇神天皇が夢の中のお告げを受けると、その原因が「大物主」によるものだと判明します。この大物主が「子孫に祀らせろ」という要望をしたことから、崇神天皇は大物主子孫の大田田根子を探し出して祀らせます。
●垂仁天皇(11代)の皇子のホムツワケ(品牟都和気命・本牟智和気命・誉津別命)は生まれながらに口が聞けませんでした。その原因が出雲大神でした。出雲の神は大国主であり、大国主=大物主ということで、この祟りも大物主の祟りということにもなるんですが、あくまでこの時の祟りは「大物主」とは書いてないので、割愛。
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性格・能力

オオモノヌシの「物」は「物の怪」の「モノ」とされます。決して悪い意味ではなく、古代においては「神と鬼」は表裏一体で、「モノ」は人ではないもの……神であり鬼という側面を持っていました。現在のように神と鬼がハッキリと分かれているのではありません。日本では神は自然物です。太陽は恵みをもたらしますが、その一方で旱魃(カンバツ)を起こします。雨も恵みですが、多すぎれば洪水となります。恵みと災害は表裏一体であるように、神と鬼は表裏一体です。

オオモノヌシは出雲の国つくりでオオクニヌシを助けたとされる一方で、祟神天皇の代になるとタタリガミとして登場します。
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古事記からの引用

イスケヨリヒメは神の子
三島湟咋(ミシマミゾクヒ)の娘に勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)という美しい少女がいました。美和(ミワ=三輪)の大物主紳(オオモノヌシ神)が彼女を気に入り、少女が大便をしているときに、丹塗矢(ニヌリヤ=丹を塗った赤い矢)に変身して、そのトイレの水が流れる溝に流れて、少女の陰部を突きました。

疫病と大物主神
祟神天皇のときに、疫病が流行して、国民が全滅しそうになりました。天皇は悲しみ、神の意思を問おうと神床(カムトコ)で眠りました。その夜、大物主大神(オオモノヌシ)が夢に出てきました。

「疫病はわたし(=オオモノヌシ)の意思だ。
意富多々泥古(オホタタネコ)という人物にわたしを祭らせれば、祟り(タタリ)は起きなくなり、国は平安になるだろう」
と言いました。

祟神天皇が
「お前は誰の子だ?」
と尋ねると答えて言いました。
「私は大物主大神(オホモノヌシノオホカミ)が陶津耳命(スエツミミノミコト)の娘である活玉依毘売(イクタマヨリビメ)を娶って産んだ櫛御方命(クシミカタノミコト)の子の飯肩巣見命イヒカタスミノミコト)の子の建甕槌命(タケミカヅチノミコト)の子のオオタタネコです」
と答えました。
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日本書紀からの引用

第八段一書(六)-1百姓は現在までその恩恵を受けています
第八段一書(六)
ある書によると…
大国主神(オオクニヌシ)、別の名を大物主神(オオモノヌシ)、もしくは国作大己貴命(クニツクリシオオナムチノミコト)、もしくは葦原醜男(アシハラシコオ)、もしくは八千戈神(ヤチホコノカミ)、もしくは大国玉神(オオクニタマノカミ)、もしくは顯国玉神(ウツシクニタマノカミ)といいます。オオクニヌシの子供は一百八十一神(モモハシラアマリヤソハシラアマリヒトハシラノカミ=181柱の神々)いました。

第九段一書(二)−2現世から退いて幽界の世界を
逆らうものがいれば、斬り殺し、歸順(マツロ=従う)うものには褒美を与えました。このときに従った首渠(ヒトゴノカミ=集団の首長)は大物主神(オオモノヌシノカミ)と事代主神(コトシロヌシ)です。

第九段一書(二)—3大物主神を祀った始まり
第九段一書(二)—3
高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)は大物主神(オオモノヌシノカミ)に命令しました。
「お前がもしも、国神(クニツカミ=国津神)を妻とするならば、私はお前に反抗する心があると思うだろう。だから、私の娘の三穗津姫(ミホツヒメ)をお前と会わせて妻としよう。八十萬神(ヤオヨロズノカミ)を率いて永遠に皇孫(スメミマ)をお守りしなさい」
そして地上に(オオモノヌシを)降ろしました。

そうして大物主神(オオモノヌシ)を祀ったのは、これが始まりです。

崇神天皇(五)弱音と儀式と大物主(日本書紀)
天皇は神淺茅原(カムアサジハラ=桜井市茅原?桜井市笠の浅茅原?とも)に行って、八十萬神に占いで問いました。このときに神明憑倭迹々日百襲姫命(カミヤマトトトヒモモソヒメ孝霊天皇の娘)が憑(カカリ=神が憑くこと)して言いました。
「天皇よ。
どうして国が治まらないことを憂うのか?
もしも私をよく敬い、祀れば、必ず国を平穏にしよう」
崇神天皇は問いました。
「そのようなことを教えてくれるのは、どこの神ですか?」
神は答えました。
「私は倭国(ヤマトノクニ)の域内(サカイノウチ)にいる神、大物主神(オオモノヌシノカミ)という」

崇神天皇(六)大物主の夢のお告げ(日本書紀)
この晩の夢に、一人の高貴な人物が現れました。宮殿の入り口に向かって立って、大物主神(オオモノヌシカミ)と名乗りました。
「天皇(スメラミコト)!!
また憂いているな。
国が治まらないのは、わたしの意思だ!!
もし、我が子、大田々根子(オオタタネコ)に私を祀らせれば、たちどころに国は平穏になる。また海外(ワタノホカ)の国があり、自然と従うだろう」

崇神天皇(七)大田々根子命を探し出す(日本書紀)
(即位7年)秋8月7日。倭迹速神淺茅原目妙姫(ヤマトトハヤカミアサヂハラマクハシヒメ)と穗積臣(ホヅミノオミ)の遠祖の大水口宿禰(オオミクチスクネ)と伊勢麻績君(イセノオミノキミ)の三人が同じ夢を見て、天皇に報告しました。
「昨夜、夢を見ました。
一人の高貴な人がいまして、教えてくれました。
『大田々根子命(オオタタネコノミコト)に大物主を祀る主(カムヌシ)として市磯長尾市(イチシノナガオチ)を倭大国魂神(ヤマトノオオクニタマノカミ)を祀る主(カムヌシ)すれば、必ず天下太平となる』と(夢の中の高貴な人は)言いました」

天皇はすぐに自ら神淺茅原(カムアサジハラ)に出向いて、諸王卿(オオキミタチマツヘツキミタチ=王さま達)と八十諸部(ヤソモロトモノオ=沢山の「伴」の主張)が集まって、大田々根子(オオタタネコ)に尋ねました。
「お前は、誰の子か?」
大田々根子(オオタタネコ)は答えました。
「父は大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)といいます。
母は活玉依媛(イクタマヨリヒメ)といいます。
(活玉依媛は)陶津耳(スエツミミ)の娘です」
また言いました。
「奇日方天日方武茅渟祇(クシヒカタアマツヒカタタケチヌツミ)の娘です」

崇神天皇(八)天社・国社・神地・神戸を定める(日本書紀)
(即位7年)11月13日。伊香色雄(イカガシコオ)に命じて、物部(モノノフ=物部氏の武人)は八十平瓮(ヤソヒラカ=平たい皿)で神に奉るものを作りました。それで大田々根子を大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)を祀る主(カムヌシ)としました。また、長尾市(ナガオチ)を倭大国魂神(ヤマトノオオクニタマノカミ)を祀る主(カムヌシ)としました。その後に他の神を祀ろうと占うと「吉」と出ました。すぐに別に八十萬群神(ヤソヨロズノモロカミ)を祀りました。天社(アマツヤシロ)・国社(クニツヤシロ)・神地(カムドコロ)・神戸(カンベ)を定めました。
すると疫病が止みはじめました。
国内がようやく鎮まりました。

崇神天皇(十六)倭迹々姫命の婚姻と死・箸墓(日本書紀)
倭迹々日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)は大物主神(オオモノヌシノカミ)の妻となりました。しかし、その神は常に昼は見えず、夜しか現れませんでした。倭迹々姫命(ヤマトトトヒメノミコト)は夫(セナ)に語って言いました。

雄略天皇(二十一)三諸丘の大蛇と少子部連蜾蠃と雷
即位7年秋7月3日に天皇は少子部連蜾蠃(チイサコベノムラジスガル)に詔して言いました。
「朕(ワレ)は三諸丘(ミモロノオカ)の神の形を見ようと思う。
別の伝によると、この山の神を大物主神(オオモノヌシノカミ)といいます。
また別の伝によると菟田(ウダ)の墨坂神(スミサカノカミ)だともいいます。
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