品牟都和気命(ホムツワケ)

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品牟都和気命

投稿日時:2017-05-05 17:40:28
漢字・読み品牟都和気命(ホムツワケ)
別名本牟智和気命(ホムチワケノミコト)・誉津別命(ホムツワケノミコト)
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概要

品牟都和気命(ホムツワケ)は古事記に登場する人物名。
皇族。
性別は男性。肥長比売(ヒナガヒメ)と結ばれているので。
記述
古事記では品牟都和気命(ホムツワケノミコト)・本牟智和気命(ホムチワケノミコト)と記述される。ただし、物語のほとんどの箇所で「御子」と表記され、品牟都和気・本牟智和気命という表記は一度づつだけ。
日本書紀では誉津別命(ホムツワケノミコト)。
出自
父親は垂仁天皇(11代)。
母親は沙本毘売命(サホビメ命=狹穗姫)。

出生について

母のサホビメは垂仁天皇の皇后でしたが、愛する兄サホビコから垂仁天皇の暗殺を頼まれます。昼寝をしている垂仁天皇を殺そうとしたのですが、結局殺せず、暗殺・反乱が露見し、サホビメは兄のサホヒコが篭る稲城に入ります。火のついた稲城で生まれたのが品牟都和気です。古事記によると「火(ホムラ)」の中で生まれたから「ホムチワケ」だと書いてあります。

サホビメは結局、稲城で死亡。サホビコも死亡。
品牟都和気だけが助かります。古事記ではサホビメは「乳母をつけてください。大湯坐(オオユエ)・若湯坐(ワカユエ)をつけて育ててください」と言い残しました。

口がきけない
品牟都和気は大人になっても口がきけませんでした。しかしある日白鳥の声を聞いて声を発したことから、大掛かりな白鳥探索が始まります。白鳥はなんとか捕まえたのですが結局、声は出せないままでした。
垂仁天皇が寝ていると夢に「わたしの宮を天皇の住居と同じように、綺麗に立て直せば、ホムチワケ御子は必ず言葉を離せるようになるだろう」とお告げがあります。その神託の主はどうやら出雲大神でした。そこで品牟都和気に曙立王菟上王が同行し、出雲に行くことになりました。出雲に参拝すると、声を発するようになりました。その後は肥長比売と結ばれますが、この姫の正体は蛇で、恐ろしくなって大和に逃げ込みました。
●出雲大神は大国主とも大物主とも言われますが、ホムチワケを祟った神=大国主・大物主というのは他の記述の箇所をすり合わせた結果の、あくまで推測。

かなり駆け足に書きました。詳細は

を参照してください。
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性格・能力

ホムツワケの出生の物語も、その後の口がきけるようになるまでの物語も非常に「神話」的です。要素や表現もこれまでの神話に見られるものが多いです。例えば「ヒゲが伸びても口がきけない」という書き方はスサノオに似ています。「口がきけない」という要素も出雲風土記でのアジスキタカヒコネにあります。「口が聞けるようになる」という物語自体が権力を得ることを象徴しているのではないかなと。また火の中から生まれるという出自はコノハナサクヤヒメによる山幸彦・海幸彦たちの出産に似ています。

出自

古事記によると
伊久米伊理毘古伊佐知命(イクメイリビコイサチノミコト=垂仁天皇)
佐波遅比売命(サワジヒメ)=沙本毘古命(サホビコ)の妹の沙本毘売命(サホビメ命)
品牟都和気命(ホムツワケ)…別名が本牟智和気命(ホムチワケ)

日本書紀によると
活目入彦五十狹茅天皇(イクメイリビコイサチノスメラミコト)=垂仁天皇
狹穗姫(サホビメ)…狹穗彦王の妹
譽津別命(ホムツワケノミコト)
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古事記からの引用

垂仁天皇の后妃と御子
垂仁天皇は沙本毘古命(サホビコ)の妹の佐波遅比売命(サワジヒメ)を娶って産んだ子供が、
品牟都和気命(ホムツワケ)
の1柱です。

本牟智和気御子の養育方法
「子供の名前は母親が名づけるものだ。
何と名前をつけるとよいだろう」
するとサホビメが答えました。
「今、火(ホムラ)のついた稲城を焼いているときに生まれました。だから、本牟智和気御子(ホムチワケノミコ)と名付けてください」

ホムチワケ御子は言葉を発さなかった
ホムチワケ御子は、尾張の相津の二股に分かれた杉で作った二股の小船を大和の市師池(イチシノイケ)や軽池(カルノイケ)に浮かべて、遊んでいました。

そのホムチワケ御子はヒゲが胸元まで伸びても、言葉を発せませんでした。ある日、白鳥の声を聞いたときです。初めて言葉を口にしたのです。

ヤマノベノオオタカの白鳥追跡
ホムチワケ御子の祟りは出雲の大神の御心
岐比佐都美(キヒサツミ)とホムチワケ王
ヒナガヒメとホムチワケ御子
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日本書紀からの引用

垂仁天皇(二)皇后と皇子、任那の新羅への恨み
即位2年の春2月9日。狹穗姫(サホビメ)を皇后としました。皇后は譽津別命(ホムツワケノミコト)を生みました。天皇はその皇子を愛し、常に左右(モトコ=側に)に置いていました。大きくなりましたが、言葉を発しませんでした。

垂仁天皇(九)倭日向武日向彦八綱田
皇后は悲しんで言いました。
「わたしは皇后といっても、兄王を失っては面目(オモテ)がありません。世間に顔向けできません」
そして王子の譽津別命(ホムツワケノミコト)を抱いて、兄王の稲城に入りました。

垂仁天皇(十二)鵠(クグイ)の追跡
即位23年の秋9月2日。
群卿(マヘツノキミタチ=群臣)に天皇は言いました。
「譽津別王(ホムツワケノミコト)は現在、30歳となり、胸までヒゲが伸びたのだが、なお泣く様子は子供のよう。言葉は話さない。どうしてか?」

冬10月8日。
天皇は宮殿の前に立っていました。譽津別皇子(ホムツワケノミコ)もいました。そのとき鳴鵠(クグイ=白鳥)がいて、大虚(オオゾラ)を飛んでいました。皇子は鵠(クグイ)を見て言いました。
「これは何??」
天皇は皇子が鵠を見て言葉を発したと喜びました。

垂仁天皇(十三)湯河板舉は鳥取造に
(即位23年)11月2日。
譽津別命は鵠(クグイ=白鳥)を垂仁天皇に献上しました。譽津別命(ホムツワケノミコト)はこの鵠で遊んで、ついに話せるようになりました。

それで湯河板舉に篤く、褒賞することにしました。
姓を与えて鳥取造としました。また鳥取部(トトリベ)、鳥養部(トリカイベ)、譽津部(ホムツベ)を定めました。
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