倭日向武日向彥八綱田

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垂仁天皇(九)倭日向武日向彦八綱田

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原文

天皇謂皇后曰「是非汝罪也。」卽發近縣卒、命上毛野君遠祖八綱田、令擊狹穗彦。時狹穗彦、興師距之、忽積稻作城、其堅不可破、此謂稻城也、踰月不降。於是、皇后悲之曰「吾雖皇后、既亡兄王、何以面目、莅天下耶」則抱王子譽津別命、而入之於兄王稻城。天皇更益軍衆、悉圍其城、卽勅城中曰「急出皇后與皇子。」然不出矣。則將軍八綱田、放火焚其城、於焉、皇后令懷抱皇子、踰城上而出之。因以奏請曰「妾始所以逃入兄城、若有因妾子免兄罪乎。今不得免、乃知、妾有罪。何得面縛、自經而死耳。唯妾雖死之、敢勿忘天皇之恩。願妾所掌后宮之事、宜授好仇。其丹波国有五婦人、志並貞潔、是丹波道主王之女也。(道主王者、稚日本根子太日々天皇之孫、彦坐王子也。一云、彦湯産隅王之子也。)當納掖庭、以盈后宮之數。」天皇聽矣。時火興城崩、軍衆悉走、狹穗彦與妹共死于城中。天皇、於是、美將軍八綱田之功、號其名謂倭日向武日向彦八綱田也。
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現代語訳

天皇は皇后に言いました。
「これは、お前の罪ではない」
すぐに近くの縣(コオリ)の卒(ツワモノ=兵士)を派遣して、上毛野君(カミツケノキミ)の遠祖の八綱田(ヤツナダ)に命じて狹穗彦(サホビコ)を討たせました。狹穗彦は師(イクサ=軍)を起こして、迎え撃ちました。たちまち稲を積み上げて城を作りました。それが固くて破れません。これを稲城(イナキ)といいます。
翌月になっても従いません。
皇后は悲しんで言いました。
「わたしは皇后といっても、兄王を失っては面目(オモテ)がありません。世間に顔向けできません」
そして王子の譽津別命(ホムツワケノミコト)を抱いて、兄王の稲城に入りました。天皇はさらに軍衆(イクサビトドモ)を増やして、完全にその城を囲んでしまいました。そして城の中に向かって言いました。
「すみやかに皇后と皇子を出せ」
しかし出てきません。
将軍(イクサノカミ)の八綱田(ヤツナダ)は火をつけてその城を焼きました。皇后は皇子を抱いて、城の塀を越えて出て来ました。そして言いました。
「わたしが始めに兄の城に逃げ入った理由は、もしわたしと皇子がいることで兄の罪を許されることがあるかもしれないと思ったからです。今、許されないと、知り、わたしにも罪があると分かりました。本当に申し訳なく思っています。あとは自殺するだけです。それでもわたしが死んでも、天皇の恩は忘れません。おねがいですから、わたしの担当した後宮(キサキノミヤ)のことは良い仇(オミナドモ)に授けてください。丹国の五(イツトリ)の婦人(オミナ)がいます。心も体も清らかです。この人たちは丹波道主王(タニハノチヌシノオオキミ)の娘です。
道主王は、稚日本根子太日々天皇(ワカヤマトネコフトヒヒノスメラミコト=開化天皇)の孫で、彦坐王(ヒコイマスノミコ)の子です。ある伝によると彦湯産隅王(ヒコユムスミノミコ)の子です。

掖庭(ウチツミヤ=後宮に使える女性が居る場所)に召し入れて、後宮の人員に仕えさせてください」
天皇は聞き入れました。
そのとき火の勢いが増し、城が崩れました。
軍衆(イクサヒトドモ)はことごとく走って逃げました。
狹穗彦(サホビコ)と妹はともに城の中で死んでしまいました。天皇は将軍の八綱田(ヤツナダ)の功を褒め、その名を倭日向武日向彦八綱田(ヤマトノヒムカタケヒムカヒコヤツナダ)としました。
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解説

古事記と違うところ
古事記ではサホビメが城から出てくるのですが、服や装飾品を腐らせて、捕まえようとしても掴めないようにして、結局城の中に取り逃がすという「物語」があり、その後、火をつけられた城の中で譽津別命(ホムツワケノミコト)を出産します。この「火の中の出産」は「出産時に火を焚くという風習」が元になっていると思われます。

日本書紀では「火の中の出産」はありません。
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