五(イツトリ)の女

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垂仁天皇(十一)五(イツトリ)の女

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原文

十五年春二月乙卯朔甲子、喚丹波五女、納於掖庭。第一曰日葉酢媛、第二曰渟葉田瓊入媛、第三曰眞砥野媛、第四曰薊瓊入媛、第五曰竹野媛。秋八月壬午朔、立日葉酢媛命爲皇后、以皇后弟之三女爲妃。唯竹野媛者、因形姿醜、返於本土。則羞其見返葛野自墮輿而死之、故號其地謂墮国、今謂弟国訛也。皇后日葉酢媛命、生三男二女、第一曰五十瓊敷入彦命、第二曰大足彦尊、第三曰大中姫命、第四曰倭姫命、第五曰稚城瓊入彦命。妃渟葉田瓊入媛、生鐸石別命與膽香足姫命。次妃薊瓊入媛、生池速別命・稚淺津姫命。

現代語訳

即位15年春2月10日。
丹波の五(イツトリ)の娘を呼び寄せて、掖庭(ウチツミヤ=皇后や皇子の世話をする宮女のいる場所)に入らせました。長女を日葉酢媛(ヒバスヒメ)、次女を渟葉田瓊入媛(ヌハタニイリビメ)、三女を眞砥野媛(マトノヒメ)、四女を薊瓊入媛(アザミニイリビメ)、五女を竹野媛(タケノヒメ)と言います。

秋8月1日。
日葉酢媛(ヒバスヒメ)を皇后としました。皇后の妹の三人を妃としました。ただし、竹野媛(タケノヒメ)だけは、醜かったので、故郷に返しました。すぐに故郷に返されたことを恥ずかしいと思って、葛野(カヅノ)で輿(コシ…人力で持ち上げて運ぶ乗り物)から自分で落ちて死んでしまいました。それでその土地を堕国(オチクニ)といいます。今は弟国(オトクニ)と訛っています。
皇后の日葉酢姫(ヒバスヒメ)は三人の男の子と二人の女の子を生みました。第一子は五十瓊敷入彦命(イニシキイリビコノミコト)といいます。第二子は大足彦尊(オオタラシヒコノミコト)といいます。第三子は大中姫命(オオナカツヒメノミコト)といいます。第四子は倭姫命(ヤマトヒメノミコト)といいます。第五子は稚城瓊入彦命(ワカキニイリビコノミコト)といいます。妃の渟葉田瓊入媛(ヌハタニイリビメ)は鐸石別命(ヌテシワケノミコト)と膽香足姫命(イカタラシヒメノミコト)を生みました。次の妃の薊瓊入媛(アザミニイリビメ)は池速別命(イケハヤワケノミコト)と稚淺津姫命(ワカアサツヒメノミコト)を生みました。
古事記の対応箇所
ヒバスヒメとオトヒメとウタゴリヒメとマトノヒメ
マトノヒメの死
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解説

垂仁天皇(九)倭日向武日向彦八綱田で皇后サホビメが提案した通りに丹波道主の5人娘を娶り、そのうち一人(タケノヒメ)を「不細工だから」という理由で追い返し、残りの4人のうち、長女を(サホビメが死んだので)皇后に、三人を妃として、子供を産ませた、というのが大雑把なお話です。
古事記とはかなり違う
人物名が違うだけで、大雑把な話は同じなのですが…
古事記ではサホビメの提案で丹波道主の「兄比売(エヒメ)」と「弟比売(オトヒメ)」が提案され、比婆須比売命(ヒバスヒメ) ・弟比売命(オトヒメ) ・歌凝比売命(ウタゴリヒメ) ・円野比売命(マトノヒメ)がやってきて、この4名のうち、 歌凝比売命(ウタゴリヒメ) ・円野比売命(マトノヒメ)が「不細工だから」送り返し、マトノヒメが自殺します。人物名が違うだけで、大雑把な話は同じなのですが
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