大神は鎮座する国を探して彷徨う

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垂仁天皇(十五)大神は鎮座する国を探して彷徨う

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原文

三月丁亥朔丙申、離天照大神於豊耜入姫命、託于倭姫命。爰倭姫命、求鎭坐大神之處而詣菟田筱幡(筱、此云佐佐)、更還之入近江国、東廻美濃、到伊勢国。時、天照大神誨倭姫命曰「是神風伊勢国、則常世之浪重浪歸国也、傍国可怜国也。欲居是国。」故、隨大神教、其祠立於伊勢国。因興齋宮于五十鈴川上、是謂磯宮、則天照大神始自天降之處也。

現代語訳

(即位25年)3月10日。
天照大神(アマテラスオオミカミ)を豊耜入姫命(トヨスキイリビメノミコト)から離し、倭姫命(ヤマトヒメミコト)をつけました。倭姫命は大神を鎮座する場所を求めて、菟田(ウダ)の筱幡(ササハタ)に至りました。
筱は佐佐(ササ)と読みます。

引き返して近江国へと入り、東の美濃を巡って、伊勢国に至りました。そのとき天照大神は倭姫命に教えました。
「この神風(カムカゼ=伊勢の枕詞)の伊勢国は、常世の国からやってくる浪(ナミ)が、重浪(シキナミ=繰り返し繰り返し浪がくること)して帰(ヨ)せる国です。傍国(カタクニ=側の国…大和のそばの国)で、可怜国(ウマシクニ)です。この国にいたいと思う」
と言いました。
そこで大神の教えた通りに祠(ヤシロ)を伊勢国に立てました。それで斎宮(イワイノミヤ)を五十鈴川の川上に立てました。磯宮(イソノミヤ)といいます。天照大神が初めて天より降りた場所です。
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解説

豊耜入姫命(トヨスキイリビメノミコト)は崇神天皇の娘の一人。日本書紀では大物主が祟りで国民の半数を疫病で殺したときに天照大神に仕えています。
参考:崇神天皇(四)疫病で国民の半数が死亡(日本書紀)

倭姫命(ヤマトヒメノミコト)は垂仁天皇がヒバスヒメと再婚してから作った子です。しかし結婚したのが即位15年の8月。その上、倭姫は第四子で、この記事の年が即位25年。再婚してから10年しか経っていません。だから単純に考えて、倭姫は6歳前後かと思われます。また、日本が仮に二倍歴を採用していたら、この「10年」は本来は「5年」。5年で第四子が生まれるのは、ギリギリです。つまり倭姫は生まれたばかりの嬰児ということになります。ニニギと状況がよく似ています。
日本人は「幼い」ほどに霊威が強いと考えていました。先代の崇神天皇の娘である豊耜入姫命(トヨスキイリビメノミコト)では天照大神を抑えきれない、祀るには役不足ということで、世代交代があった、のかもしれません。
●ちなみに、倭姫は次の景行天皇の時代ではヤマトタケルにサポートを行う巫女として大活躍します。

参考:垂仁天皇(十一)五(イツトリ)の女
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