氷羽州比売命(ヒバスヒメ)

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氷羽州比売命

投稿日時:2017-05-06 13:18:56
漢字・読みヒバスヒメ
別名比婆須比売命(ヒバスヒメ)・日葉酢媛(ヒバスヒメ)
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概要

氷羽州比売命(ヒバスヒメ)・比婆須比売命(ヒバスヒメ)は古事記に登場する人物。
日本書紀では日葉酢媛(ヒバスヒメ)と記述される。
出自
父親は丹波比古多々須美知能宇斯王日本書紀では丹波道主王(タニハノチヌシノオオキミ…四道将軍の一人)と同一とされる人物。
母親は丹波の河上麻須郎女(カワカミノマスノイラツメ)。日本書紀では対応する人物名は見られない。

古事記によれば「狭木の寺間陵(サキノテラマノミササギ)」。
日本書紀には記述はない。

物語・由来

個人的な活動はないが関わる物語は多い。
サホビメからの推薦で皇后に
古事記・日本書紀ともに、サホビメの推薦によって垂仁天皇の皇后になった。サホビメは兄サホビコとともに垂仁天皇の暗殺を企て、失敗し死んでしまった。サホビメは本意ではなかったという表現になっている。サホビメは死ぬ直前に息子である本牟智和気の養育方針と、皇后サホビメの後釜として勧めた。日本書紀には「丹国の五(イツトリ)の婦人(オミナ)」と表記がある。その丹波の少女の一人がヒバスヒメです。

ヒバスヒメとその姉妹は揃って垂仁天皇に嫁ぐのですが、古事記では4人のうち二人だけが嫁いで、二人は送り返され、送り返された姉妹のうちの円野比売命(マトノヒメ)は自殺しました。首を吊ろうとした場所を「相楽(サガラ)」。崖から落ちた場所を「堕国」と呼ぶようになりました。現在は「弟国」と呼んでいます。
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殉葬の禁止

日本書紀によるとヒバスヒメが死んで、葬るまでの時間に殉葬についての話し合いが朝廷であり、殉葬をやめたい垂仁天皇の提案に野見宿禰が
すぐに使者を派遣して出雲国の土部(ハジベ)100人を呼び寄せて、(野見宿禰が)自ら土部を使って、埴(ハニツチ)を取り、人や馬や種々のものの形を作って、天皇に献上して言いました。
「これより以降、この土物(ハニモノ)を生人(イキタルヒト)に替えて、陵墓に立てて、後葉(ノチノヨ)の法則(ノリ)とましょう」

と提案して、それが採択され、これ以降、殉葬の風習はなくなり、埴輪を代わりに陵に祀ることになった…ということが書かれています。古事記には細かくは書かれていませんが、垂仁天皇の時代にヒバスヒメの死亡の際に殉葬がなくなり土師部の作る埴輪が利用されるようになったと書いてあります。
●魏志倭人伝によれば卑弥呼の墓では殉葬があったとある。
●ただし、殉葬があったと確定できるような古墳は今まで一つも見つかっていない。
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出自のまとめ

古事記によると
丹波比古多々須美知能宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ王)…開化天皇(9代)の皇子の日子坐王の子供
丹波の河上麻須郎女(カワカミノマスノイラツメ)
比婆須比売命(ヒバスヒメノミコト…垂仁天皇の皇后
真砥野比売命(マトノヒメノミコト
弟比売命(オトヒメノミコト
朝廷別王(ミカドワケノミコ)…三川(ミカハ)の穂別(ホノワケ)の祖先

日本書紀には詳細はない。

婚姻と子孫

古事記によると
伊久米伊理毘古伊佐知命
氷羽州比売命(ヒバスヒメ)…旦波比古多々須美知宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ)の娘…別名が比婆須比売命(ヒバスヒメノミコト)
印色入日子命(イニシキノイリヒコ)
大帯日子淤斯呂和気命(オホタラシヒコオシロワケ)景行天皇
大中津日子命(オホナカツヒコ)…山辺之別(ヤマノベノワケ)・三枝之別(サキクサノワケ)・稲木之別(イナキノワケ)・阿太之別(アダノワケ)・尾張国の三野別(ミノノワケ)・吉備の石无別(イワナシノワケ)・許呂母之別(コロモノワケ)・高巣鹿之別(タカスカノワケ)・飛鳥君(アスカノキミ)・牟礼之別(ムレノワケ)の祖先。
倭比売命ヤマトヒメ…天照大神を伊勢に祀った
若木入日子命(ワカキイリヒコ)


日本書紀によると
活目入彦五十狹茅天皇
日葉酢媛(ヒバスヒメ)=皇后
五十瓊敷入彦命(イニシキイリビコノミコト)
大足彦尊(オオタラシヒコノミコト)景行天皇
大中姫命(オオナカツヒメノミコト)
倭姫命(ヤマトヒメノミコト)
稚城瓊入彦命(ワカキニイリビコノミコト)
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引用

古事記からの引用
垂仁天皇の后妃と御子
また旦波比古多々須美知宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ)の女、氷羽州比売命(ヒバスヒメ)を娶って産んだ子供が、
印色入日子命(イニシキノイリヒコ)、
大帯日子淤斯呂和気命(オホタラシヒコオシロワケ=景行天皇)、
大中津日子命(オホナカツヒコ)、
倭比売命ヤマトヒメ)、
若木入日子命(ワカキイリヒコ)
の5柱です。

また氷羽州比売命(ヒバスヒメ)の妹の沼羽田之入毘売命(ヌバタノイリビメ)を娶って産んだ子供が、
沼帯別命(ヌタラシワケ)
伊賀帯日子命(イガタラシヒコ)
の2柱です。

垂仁天皇が、ヌバタノイリヒメ命の妹の阿耶美能伊理毘売命(アザミノイリヒメ)を娶って産んだ子供が
伊許婆夜和気命(イコバヤワケ)
阿耶美都比売命(アザミツヒメ)
のニ柱です。

ヒバスヒメとオトヒメとウタゴリヒメとマトノヒメ
サホビメが言うとおりに垂仁天皇は美知能宇斯王(ミチノウシノミコ)の娘の、
比婆須比売命(ヒバスヒメ)
弟比売命(オトヒメ)
歌凝比売命(ウタゴリヒメ)
円野比売命(マトノヒメ)
全部で4柱を妻として迎えました。

ところが比婆須比売命(ヒバスヒメ)・弟比売命(オトヒメ)だけを残して、あとのニ柱の妹(=ウタゴリヒメとマトノヒメ)たちは、容姿が悪かったので、故郷に送り返してしまいました。

垂仁天皇の墓
皇后のヒバスヒメの時に石の棺をつくる部民を定めました。またそれまで氏族の有力者が亡くなった場合に従者が生き埋めにされていましたが、従者の代わりに埋める土作りの人形(埴輪)を作る土師部を定めました。このヒバスヒメの墓は狭木の寺間陵にあります。

日本書紀からの引用
垂仁天皇(十一)五(イツトリ)の女
即位15年春2月10日。
丹波の五(イツトリ)の娘を呼び寄せて、掖庭(ウチツミヤ=皇后や皇子の世話をする宮女のいる場所)に入らせました。長女を日葉酢媛(ヒバスヒメ)、次女を渟葉田瓊入媛(ヌハタニイリビメ)、三女を眞砥野媛(マトノヒメ)、四女を薊瓊入媛(アザミニイリビメ)、五女を竹野媛(タケノヒメ)と言います。

秋8月1日。
日葉酢媛(ヒバスヒメ)を皇后としました。皇后の妹の三人を妃としました。ただし、竹野媛(タケノヒメ)だけは、醜かったので、故郷に返しました。すぐに故郷に返されたことを恥ずかしいと思って、葛野(カヅノ)で輿(コシ…人力で持ち上げて運ぶ乗り物)から自分で落ちて死んでしまいました。それでその土地を堕国(オチクニ)といいます。今は弟国(オトクニ)と訛っています。
皇后の日葉酢姫(ヒバスヒメ)は三人の男の子と二人の女の子を生みました。第一子は五十瓊敷入彦命(イニシキイリビコノミコト)といいます。第二子は大足彦尊(オオタラシヒコノミコト)といいます。第三子は大中姫命(オオナカツヒメノミコト)といいます。第四子は倭姫命(ヤマトヒメノミコト)といいます。第五子は稚城瓊入彦命(ワカキニイリビコノミコト)といいます。

垂仁天皇(二十)土部を出雲から呼び、埴輪を作らせる
即位32年秋7月6日。皇后の葉酢媛命(ヒバスヒメノミコト)が亡くなりました。
ある伝によると、葉酢根命(ヒバスネノミコト)といいます。

「お前の便議(タヨリナルハカリコト=代替案)はとても私の望みにかなったものだった」
それでその土物を初めて日葉酢姫命(ヒバスヒメノミコト)の墓に立てました。それでこの土物を名付けて『埴輪(ハニワ)』と言います。または立物(タテモノ)といいます。
それで令(ノリゴト)をしていいました。
「これより以降は陵墓(ミササギ)に必ず、この土物を樹(タ)てて、人を傷つけないよう」
天皇は野見宿禰を厚く功賞して鍛地(カタシトコロ)を与えました。土部の職に就かせました。それで本の姓を改めて土部臣(ハジノオミ)といいます。土師連(ハジノムラジ)などが天皇の喪葬(ミハブリ)を司る所以です。いわゆる野見宿禰はこの土部連などの始祖です。

景行天皇(一)皇太子即位と出自など
大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト=景行天皇)は活目入彦五十狹茅天皇(イクメイリビコイサチノスメラミコト=垂仁天皇)の第三子です。母親は皇后の日葉洲媛命(ヒバスヒメ)といいます。
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