印色入日子命(イニシキノイリヒコ)

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印色入日子命

投稿日時:2017-06-13 14:39:09
漢字・読みイニシキノイリヒコ
別名五十瓊敷入彦命
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概要

印色入日子命(イニシキノイリヒコ)は古事記に登場する人物。
日本書紀では五十瓊敷入彦命(イニシキイリビコノミコト)。五十瓊敷命(イニシキノミコト)。
皇族。
おそらく男性。
出自
父親は垂仁天皇(11代)。
母親は古事記では氷羽州比売命(ヒバスヒメ)。日本書紀では日葉酢媛(ヒバスヒメ)。
弟に景行天皇(12代)がいる。
子孫
古事記にも日本書紀にも「子孫」に関する記述はない。

物語・由来

古事記では血沼池狭山池日下の高津池を作り、また鳥取の河上宮で刀千本をつくり、石上神宮に奉納したとあります。

日本書紀では古事記の活躍とは別に多少の活躍がある。
箇条書きにします。
●弟の大足彦尊との皇位をめぐるやりとり。
●池や水路を作り、発展させる(高石池と茅渟池、倭の狹城池と迹見池と水路)。
●茅渟(チヌ)の菟砥川上宮に剣、千口を納める。

詳細は以下の引用とリンクを参考にしてください。
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活躍の詳細

景行天皇との皇位争い
垂仁天皇に「何が欲しい」と尋ねられ「弓と矢」と答えた五十瓊敷入彦命は弓を矢を得ますが、皇位は得られませんでした。この物語が示すものは何か? 元になった神話があったのだと思います。兄が負け、弟が残る「季節型神話」だと思います。ですが、それとは別にこの時代に「価値の変化」があったのではないか?と思います。弓と矢は神武東征で「天津神である証拠」として登場する「権威の象徴」です。その弓矢と皇位が分離した、という意味ではないでしょうか。
水路
イニシキの「ニ」は瓊瓊杵尊(ニニギミコト)の「瓊」と同じで、稲穂の穀物霊を表しています。五十瓊敷入彦命は農業に関わる人物、もしくは神が原型でしょう。彼が農業に貢献したから、この神の名前が送られたのかもしれませんし、神の名の下で事業が行われたという意味かもしれません。
菟砥川上宮に剣千口
垂仁天皇から弓矢を得た。そのことを「武力」の象徴と捉えると、五十瓊敷入彦命は「武」の人物なのですが、名前と池・水路の事業を考えると、これも農業か宗教関係の事件ではないかと思います。この時代に石上神宮に剣を納めるというのは、蝦夷の侵攻を防ぐ意味があったのではないかと思います。つまりお守りです。ですがそれは私の個人的見解。
一般的には剣を神体にした武器庫だったのではないか?という見方をする人が多いです。
剣を大量に作り、それを石上神宮に納めた。

異説では楯部(タテヌイベ)、倭文部(シトリベ)、神弓削部(カムユゲベ)、神矢作部(カムヤハギベ)、大穴磯部(オオアナシベ)、泊橿部(ハッカシベ)、玉作部(タマツクリベ)、神刑部(カムオサカベ)、日置部(ヒオキベ)、太刀佩部(タチハカベ)を五十瓊敷入彦命に与えたとあります。ほとんどが儀式に関する部民です。五十瓊敷入彦命が剣を千個作ったのは、宗教的儀式が動機ではないかと。
石上神宮について
五十瓊敷入彦命は剣を最初は忍坂邑(オシサカノヘキ)に納めましたが、その後、石上神宮に剣を納めました。忍坂は奈良盆地の伊勢側になる場所。単に移動経路を示したものか、何か経緯があったのか。詳細は書かれていません。もしかすると一時的に蝦夷がここまで侵攻していた?それは深読みでしょうね。
石上神宮に移動した後は「春日臣の市河(イチカワ)に治めさせなさい」と神託があり、市河なる人物に管理を任せることになります。これが今の物部首(モノノベノオビト)の始祖だとしています。物部は「モノノフ」の語源になった武士の原型ともいうべき氏族です。
私としては単純な武士ではなく物部氏は剣を扱う宗教儀式の人物だったのではないかと考えています。宗教的に剣を扱う一方で、実際に武を振るう性質もあったのではないかと。大久米氏が「料理人」でありながら「兵士」なのと同じで、両方の意味を持っていながら、しかし建前は「宗教・料理」が主となっていた…そんなところじゃないかと。
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出自と子孫

古事記によると
伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)
氷羽州比売命(ヒバスヒメ)…旦波比古多々須美知宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ)の娘…別名が比婆須比売命(ヒバスヒメノミコト)
印色入日子命(イニシキノイリヒコ)
大帯日子淤斯呂和気命(オホタラシヒコオシロワケ)景行天皇
大中津日子命(オホナカツヒコ)…山辺之別(ヤマノベノワケ)・三枝之別(サキクサノワケ)・稲木之別(イナキノワケ)・阿太之別(アダノワケ)・尾張国の三野別(ミノノワケ)・吉備の石无別(イワナシノワケ)・許呂母之別(コロモノワケ)・高巣鹿之別(タカスカノワケ)・飛鳥君(アスカノキミ)・牟礼之別(ムレノワケ)の祖先。
倭比売命ヤマトヒメ…天照大神を伊勢に祀った
若木入日子命(ワカキイリヒコ)

日本書紀によると
活目入彦五十狹茅天皇(垂仁天皇)
日葉酢媛(ヒバスヒメ)=皇后
五十瓊敷入彦命(イニシキイリビコノミコト)
大足彦尊(オオタラシヒコノミコト)…景行天皇
大中姫命(オオナカツヒメノミコト)
倭姫命(ヤマトヒメノミコト)
稚城瓊入彦命(ワカキニイリビコノミコト)
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引用

古事記からの引用
垂仁天皇の后妃と御子
また旦波比古多々須美知宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ)の女、氷羽州比売命(ヒバスヒメ)を娶って産んだ子供が、
印色入日子命(イニシキノイリヒコ)、
大帯日子淤斯呂和気命(オホタラシヒコオシロワケ=景行天皇)、
大中津日子命(オホナカツヒコ)、
倭比売命ヤマトヒメ)、
若木入日子命(ワカキイリヒコ)
の5柱です。

垂仁天皇の治世
イニシキノイリヒコ命は灌漑用に血沼池狭山池日下の高津池を作りました。また鳥取の河上宮で、刀千本をつくり、石上神宮に奉納しました。

日本書紀からの引用
垂仁天皇(十一)五(イツトリ)の女
皇后の日葉酢姫(ヒバスヒメ)は三人の男の子と二人の女の子を生みました。第一子は五十瓊敷入彦命(イニシキイリビコノミコト)といいます。第二子は大足彦尊(オオタラシヒコノミコト)といいます。第三子は大中姫命(オオナカツヒメノミコト)といいます。第四子は倭姫命(ヤマトヒメノミコト)といいます。第五子は稚城瓊入彦命(ワカキニイリビコノミコト)といいます。

垂仁天皇(十九)「お前たち、それぞれ欲しいものを言え」
即位30年の春1月6日。天皇は五十瓊敷命(イニシキノミコト)・大足彦尊(オオタラシヒコノミコト)に言いました。
「お前たち、それぞれ欲しいものを言え」
兄王(=イニシキ命のこと)は言いました。
「弓矢を得たいと思います」
弟王(=オオタラシヒコ尊のこと=景行天皇)は
「皇位を得たいと思います」
といいました。
それで垂仁天皇は言いました。
「それぞれの心のままにすべし」
すぐに弓矢を五十瓊敷命(イニシキノミコト)に与えました。そして大足彦尊(オオタラシヒコノミコト)に言いました。
「お前は、必ず我が位(=皇位=天皇の地位)を継げ」

垂仁天皇(二十二)高石池・茅渟池・狹城池・迹見池を作る
即位35年秋9月。
五十瓊敷命(イニシキノミコト)を河内国に派遣して高石池(タカシノイケ)と茅渟池(チヌノイケ)を作らせました。冬10月に倭(ヤマト)の狹城池(サキノイケ)と迹見池(トミノイケ)を作りました。その年、諸国に命じてたくさんの池溝(ウナデ=水路)を掘らせました。数800余り。農(ナリワイ)を事業としました。これで百姓に富みが広がり、天下泰平となりました。

垂仁天皇(二十三)十箇の品部と石上神宮、物部首の始祖
即位39年冬10月。
五十瓊敷命(イニシキノミコト)は茅渟(チヌ)の菟砥川上宮(ウトノカワカミノミヤ=大阪府阪南市玉田山?)いて、剣一千口を作りました。それでその剣を名付けて、川上部といいます。またの名は裸伴(アカハダガトモ)といいます。
裸伴は阿箇播娜我等母(アカハダガトモ)と読みます。

石上神宮(イソノカミカムミヤ)に蔵(オサ)めました。

こののちに垂仁天皇は五十瓊敷命(イニシキノミコト)に命じて石上神宮の神宝を管理させました。
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