河上部

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河上部

投稿日時:2017-06-27 14:06:48
別名川上部
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概要

河上部は古事記に登場する言葉。
日本書紀では川上部。
河上という名前は、垂仁天皇の皇子の印色入日子命日本書紀では五十瓊敷命)が鳥取(現在の阪南市の地域)の河上宮で「刀千本」を作って、石上神宮に奉納したことに由来しています。で、普通「部」というのは職業を由来とした集団のことですから、河上部という名前から考えるに、刀を作る集団のことだと思われます。

個人的にはこの刀が金属製なのか疑問に思っているんですが、まぁ、金属製だとして火を使って金属を溶かす以上は山の中で作業することになり、熱した金属を冷やすための水も必要で、河上で作業するのは不思議じゃない。むしろ当然。石製だとしても、石が出るのが山の中なら、その研磨作業をするのであれば河が近い方がいいわけで、ともかく、「河上」というワードが古代では「刀・剣」を連想するワードだったからこそ、河上部という言葉が成立したのだと思います。
●刀剣はおそらく宗教的なアイテムだった。だから川上とは宗教的な意味も持つようになったのではないかと思います。
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クワカミという言葉の意味

ところで蘇我馬子の娘に「河上娘(カワカミノイラツメ)」という女性がいて、東漢直駒(アズマノアヤノアタイコマ)に連れ去られるという事件が崇峻天皇即位5年11月に起きています。

また日本書紀ヤマトタケルの熊襲征伐では川上梟師(カワカミタケル)が登場しています。
他にも雄略天皇が川上舎人部なる部民を定めています。
「川上」「河上」というのは単に川の上流という意味だけではなく、宗教的に意味のある言葉だったのではないかと思います。
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引用

古事記からの引用
垂仁天皇の治世
印色入日子命(イニシキノイリヒコ命=垂仁天皇の皇子)は灌漑用に血沼池狭山池日下の高津池を作りました。また鳥取の河上宮で、刀千本をつくり、石上神宮に奉納しました。
そのまま印色入日子命はその宮で河上部を定めました。


日本書紀からの引用
垂仁天皇(二十三)十箇の品部と石上神宮、物部首の始祖
即位39年冬10月。
五十瓊敷命(イニシキノミコト)は茅渟(チヌ)の菟砥川上宮(ウトノカワカミノミヤ=大阪府阪南市玉田山?)いて、剣一千口を作りました。それでその剣に因んで名付けて、川上部といいます。またの名は裸伴(アカハダガトモ)といいます。
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