倭比売命(ヤマトヒメ)

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倭比売命

投稿日時:2017-05-09 13:18:00
漢字・読みヤマトヒメ
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倭比売命(ヤマトヒメ)

倭比売命(ヤマトヒメ)は古事記・日本書紀で登場する人物。
皇族。
女性。
記述
古事記では倭比売命(ヤマトヒメ)。
日本書紀では倭姫命(ヤマトヒメミコト)。
出自
父親は垂仁天皇(11代)。
母親は古事記では氷羽州比売命(ヒバスヒメ)、日本書紀では日葉酢姫(ヒバスヒメ)。
同腹の兄に景行天皇(12代)がいる。

古事記・日本書紀には記述はない。
伝承では尾上御陵とされる。
子と子孫
記述なし。

物語・由来

古事記での活動
伊勢神宮の斎宮になり、景行天皇の子供のヤマトオグナ(=ヤマトタケル=小碓)が熊襲征伐に向かう前に、女性ものの衣服を渡した。
またヤマトタケルが東国征伐に行く時には伊勢神宮に参拝に来たヤマトタケル草那芸剣(クサナギノツルギ)と袋を渡します。袋には火打石が入っていることが後に判明します。
日本書紀での活動
崇神天皇の時代に天照大神は天皇が生活する大殿から出されて別の場所で祀ることになりました。その時祀っていたのが「豊耜入姫命(トヨスキイリビメノミコト)」。豊耜入姫命は崇神天皇の娘で、倭姫から見ると叔母に当たります。垂仁天皇の即位25年3月10日に天照大神は倭姫に引き継がれ、菟田の筱幡→近江国→美濃→伊勢国に至り伊勢神宮に祀ります。素直に読めば倭姫が伊勢神宮を初めた、ということになります。

倭姫と天照大神の関係は「異説」扱いですが、もう一つ記述があります。
同じく垂仁天皇の時代に即位26年冬10月に伊勢に移したというものがあります。

景行天皇即位40年10月7日にヤマトタケルが伊勢神宮に訪れました。倭姫がヤマトタケルに草薙剣(クサナギノツルギ)を授けています。

景行天皇の時代、年数は分かりませんが、熱田社(=現在の熱田神宮)にヤマトタケルが連れて来た蝦夷がいたのですが、あまりに騒がしいので倭姫が
「この蝦夷たちは、神宮の近くにいるべきではない」
と提言して、蝦夷は御諸山(=三輪山)に追い出されるんですが、そこでも迷惑をかけて追い出されます。
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解説

倭姫は叔母から天照大神を引き継ぎ、倭姫は甥っ子のヤマトタケルに草薙剣を引き渡します。その草薙剣はヤマトタケルの死後に熱田神宮で祀られ、その熱田神宮にヤマトタケルが連れて来た蝦夷を「迷惑」だからと追い出す。その蝦夷はのちに「佐伯」と呼ばれる氏族になります。古事記でも日本書紀でも物語の主役・主軸はあくまで景行天皇とヤマトタケルなんですが、影の主役は倭姫です。
一般的なイメージとしては倭姫は斎宮で、政治的に抑圧された女性というイメージですが、伊勢神宮の斎宮が、熱田社の近くで蝦夷が暴れていることを提言できるってことは、それなりに中央にも影響力があるってことだし、熱田社も倭姫の影響下にあったってことです。かなり実力者だったのではないかと。

よく倭迹々日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)と「似ている」とされます。
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古事記からの引用

垂仁天皇の后妃と御子
また旦波比古多々須美知宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ)の女、氷羽州比売命(ヒバスヒメ)を娶って産んだ子供が、
印色入日子命(イニシキノイリヒコ)、
大帯日子淤斯呂和気命(オホタラシヒコオシロワケ=景行天皇)、
大中津日子命(オホナカツヒコ)、
倭比売命(ヤマトヒメ)、
若木入日子命(ワカキイリヒコ)
の5柱です。

垂仁天皇の系譜
倭比売命(ヤマトヒメ)は伊勢神宮の斎宮となりました。

オウス命は倭比売命から援助を受ける
オウス命は叔母の倭比売命(ヤマトヒメノミコト)の衣服をもらいうけ、剣を懐に入れていきました。

草那芸剣と袋を受け取る
ヤマトタケルは景行天皇からの命令を受けて、東国へと向かう途中、伊勢神宮へと参拝しました。
そこで叔母である倭比売命(ヤマトヒメ)に言いました。
「景行天皇はわたしに死ねと思っているのでしょうか??
どうにか西の悪い人達を撃ち、帰ってきたというのに、間を置かずに兵士もつけずに、また東の悪い人たちを平定に派遣するのでしょうか??
やはり、わたしなど死ねと考えているのではないでしょうか??」
ヤマトタケルが憂い泣いていると、ヤマトヒメは草那芸剣(クサナギノツルギ)と袋をヤマトタケルに渡しました。
「もし、危険になったら、袋を開けなさい」
と言いました。

焼津の火攻め
すると国造は野原に火をつけました。
ヤマトタケルは騙されたと悟りました。
叔母のヤマトヒメから貰った吹くるを開けてみました。
袋には火打石がありました。
そこでまずクサナギの剣で草を刈り、火打石で火をつけ、迎え火をして、火を退かせました。
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日本書紀からの引用

垂仁天皇(十一)五(イツトリ)の女
皇后の日葉酢姫(ヒバスヒメ)は三人の男の子と二人の女の子を生みました。第一子は五十瓊敷入彦命(イニシキイリビコノミコト)といいます。第二子は大足彦尊(オオタラシヒコノミコト)といいます。第三子は大中姫命(オオナカツヒメノミコト)といいます。第四子は倭姫命(ヤマトヒメノミコト)といいます。第五子は稚城瓊入彦命(ワカキニイリビコノミコト)といいます。

垂仁天皇(十五)大神は鎮座する国を探して彷徨う
(即位25年)3月10日。
天照大神(アマテラスオオミカミ)を豊耜入姫命(トヨスキイリビメノミコト)から離し、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)をつけました。倭姫命は大神を鎮座する場所を求めて、菟田(ウダ)の筱幡(ササハタ)に至りました。
筱は佐佐(ササ)と読みます。

引き返して近江国へと入り、東の美濃を巡って、伊勢国に至りました。そのとき天照大神は倭姫命に教えました。
「この神風(カムカゼ=伊勢の枕詞)の伊勢国は、常世の国からやってくる浪(ナミ)が、重浪(シキナミ=繰り返し繰り返し浪がくること)して帰(ヨ)せる国です。傍国(カタクニ=側の国…大和のそばの国)で、可怜国(ウマシクニ)です。この国にいたいと思う」
と言いました。
そこで大神の教えた通りに祠(ヤシロ)を伊勢国に立てました。それで斎宮(イワイノミヤ)を五十鈴川の川上に立てました。磯宮(イソノミヤ)といいます。天照大神が初めて天より降りた場所です。

垂仁天皇(十六)もう一つの天照大神の祭祀物語
ある書によると…
天皇は倭姫命(ヤマトヒメノミコト)を御杖(ミツエ=依り代と同じ意味)として、天照大神に奉りました。それで倭姫命は天照大神を磯城(シキ=地名)の嚴橿(イツカシ=神の依代となる木)の根元に鎮座して祀りました。その能登に神の教えの通りに即位26年冬10月に伊勢国の渡遇宮(ワタライノミヤ)に移りました。

景行天皇(三十一)東征の前に日本武尊は伊勢神宮へ
10月7日。寄り道して伊勢神宮(イセノカミノミヤ)を参拝しました。それで倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に会って言いました。
「今の天皇から命を受けて、東に行って諸々の叛くものを討つことになっています。だから之を辞したい」
それで倭姫命は草薙剣(クサナギノツルギ)を取って、日本武尊に授けて言いました。
「慎みなさい。
怠ってはいけません(油断してはいけません)」

景行天皇(四十四)無礼な蝦夷は熱田から三輪山へ
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が佩(ハ=帯刀するという意味)いた草薙横刀(クサナガチノツルギ)は現在、尾張国(オワリノクニ)の年魚市郡(アユチノコオリ=愛知のこと)の熱田社(アツタノヤシロ)にあります。ここに神宮に献上した蝦夷たちは昼夜に鳴り騒いで、出入礼(イデイリイヤ)無し(=非常に無礼)でした。
そこで倭姫命(ヤマトヒメノミコト)はいいました。
「この蝦夷たちは、神宮の近くにいるべきではない」
すぐに朝廷(ミカド)に意見を報告しました。それで御諸山(ミモロヤマ=現在の奈良県桜井市三輪山)のほとりに安置(サブラ=侍う=侍らす)しました。
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