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景行天皇(四十四)無礼な蝦夷は熱田から三輪山へ
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初日本武尊所佩草薙横刀、是今在尾張国年魚市郡熱田社也。於是、所獻神宮蝦夷等、晝夜喧譁、出入無禮。時倭姫命曰「是蝦夷等、不可近於神宮。」則進上於朝庭、仍令安置御諸山傍。未經幾時、悉伐神山樹、叫呼隣里而脅人民。天皇聞之、詔群卿曰「其置神山傍之蝦夷、是本有獸心、難住中国。故、隨其情願、令班邦畿之外。」是今播磨・讚岐・伊豫・安藝・阿波、凡五国佐伯部之祖也。
現代語訳
これより以前のことです。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が佩(ハ=帯刀するという意味)いた草薙横刀(クサナガチノツルギ)は現在、尾張国(オワリノクニ)の年魚市郡(アユチノコオリ=愛知のこと)の熱田社(アツタノヤシロ)にあります。ここに神宮に献上した蝦夷たちは昼夜に鳴り騒いで、出入礼(イデイリイヤ)無し(=非常に無礼)でした。
そこで倭姫命(ヤマトヒメノミコト)はいいました。
「この蝦夷たちは、神宮の近くにいるべきではない」
すぐに朝廷(ミカド)に意見を報告しました。それで御諸山(ミモロヤマ=現在の奈良県桜井市三輪山)のほとりに安置(サブラ=侍う=侍らす)しました。それから幾ばくかの時間も経たないうちに、神山(=三輪山)の木を全部切ってしまって、里に叫び、人民を脅かしました。天皇はその話を聞いて、群卿(マヘツノキミタチ)に言いました。
「あの神山(カミノヤマ)のほとりに置いた蝦夷は、元から獣(アヤ)しい心(=獣のような心)があり、中国(ウチツクニ=畿内のこと)に住むのは難しいだろう。そこでその心の願いの隨(マニマニ)に、邦畿之外(トツクニ)に置きなさい」
それで現在、播磨(ハリマ=兵庫県)・讃岐(サヌキ=香川県)・伊予(イヨ=愛媛県)・安芸(アキ=広島県)・阿波(アワ=徳島県)の全ての五国の佐伯部の祖先となりました。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が佩(ハ=帯刀するという意味)いた草薙横刀(クサナガチノツルギ)は現在、尾張国(オワリノクニ)の年魚市郡(アユチノコオリ=愛知のこと)の熱田社(アツタノヤシロ)にあります。ここに神宮に献上した蝦夷たちは昼夜に鳴り騒いで、出入礼(イデイリイヤ)無し(=非常に無礼)でした。
そこで倭姫命(ヤマトヒメノミコト)はいいました。
「この蝦夷たちは、神宮の近くにいるべきではない」
すぐに朝廷(ミカド)に意見を報告しました。それで御諸山(ミモロヤマ=現在の奈良県桜井市三輪山)のほとりに安置(サブラ=侍う=侍らす)しました。それから幾ばくかの時間も経たないうちに、神山(=三輪山)の木を全部切ってしまって、里に叫び、人民を脅かしました。天皇はその話を聞いて、群卿(マヘツノキミタチ)に言いました。
「あの神山(カミノヤマ)のほとりに置いた蝦夷は、元から獣(アヤ)しい心(=獣のような心)があり、中国(ウチツクニ=畿内のこと)に住むのは難しいだろう。そこでその心の願いの隨(マニマニ)に、邦畿之外(トツクニ)に置きなさい」
それで現在、播磨(ハリマ=兵庫県)・讃岐(サヌキ=香川県)・伊予(イヨ=愛媛県)・安芸(アキ=広島県)・阿波(アワ=徳島県)の全ての五国の佐伯部の祖先となりました。
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解説
蝦夷はうるさい
ヤマトタケルによって熱田神宮に献上されたのですが、そこで大騒ぎし、非常に無礼ということで、熱田神宮から離され三輪山へと移動。そこでも問題を起こしてしまったので、今度は瀬戸内海沿岸の、兵庫・広島・徳島・愛媛・香川へと左遷されました。そこで「佐伯」という名前となりました。
ちなみに佐伯は「騒がしい」から派生したとも言われます。
奴隷では無いな
ヤマトタケルが東から連れてきた蝦夷のことを、平安時代に異民族として徹底的に戦った経緯から、現代のわたしたちは「野蛮な異民族」というイメージがありますが、そのような格下の異民族を伊勢神宮や大神神社という「古社中の古社」である歴史も名前もある場所に置くということは、決して蝦夷に対して「悪い」イメージを当時の日本人が持っていなかった、と考えたほうが自然に思います。
その上、地方に左遷という形式ではありますが、佐伯(=蝦夷)は「見下される奴隷」ではなく、それどころか佐伯氏は安芸国では「安芸国造」という現在でいうところに「知事様」という家柄です。どー考えても奴隷では有り得ない。
神宮の近くや三輪山に置かれたところを見ると「土木技術」「建築技術」の集団だったのではないか?と思います。彼らは東の国で培った技術を畿内や西日本で活用した「移民」です。だから佐伯部として定着した。ただし、彼らは「異民族」です。やっぱり揉め事もあったことでしょう。その史実がこのページの物語に反映されていると思います。
ヤマトタケルによって熱田神宮に献上されたのですが、そこで大騒ぎし、非常に無礼ということで、熱田神宮から離され三輪山へと移動。そこでも問題を起こしてしまったので、今度は瀬戸内海沿岸の、兵庫・広島・徳島・愛媛・香川へと左遷されました。そこで「佐伯」という名前となりました。
ちなみに佐伯は「騒がしい」から派生したとも言われます。
奴隷では無いな
ヤマトタケルが東から連れてきた蝦夷のことを、平安時代に異民族として徹底的に戦った経緯から、現代のわたしたちは「野蛮な異民族」というイメージがありますが、そのような格下の異民族を伊勢神宮や大神神社という「古社中の古社」である歴史も名前もある場所に置くということは、決して蝦夷に対して「悪い」イメージを当時の日本人が持っていなかった、と考えたほうが自然に思います。
その上、地方に左遷という形式ではありますが、佐伯(=蝦夷)は「見下される奴隷」ではなく、それどころか佐伯氏は安芸国では「安芸国造」という現在でいうところに「知事様」という家柄です。どー考えても奴隷では有り得ない。
神宮の近くや三輪山に置かれたところを見ると「土木技術」「建築技術」の集団だったのではないか?と思います。彼らは東の国で培った技術を畿内や西日本で活用した「移民」です。だから佐伯部として定着した。ただし、彼らは「異民族」です。やっぱり揉め事もあったことでしょう。その史実がこのページの物語に反映されていると思います。
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- Page43 景行天皇(四十三)棟梁之臣
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