白鳥陵に衣冠を葬る

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景行天皇(四十一)白鳥陵に衣冠を葬る

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原文

時、日本武尊化白鳥、從陵出之、指倭国而飛之。群臣等、因以、開其棺櫬而視之、明衣空留而屍骨無之。於是、遺使者追尋白鳥、則停於倭琴彈原、仍於其處造陵焉。白鳥更飛至河內、留舊市邑、亦其處作陵。故、時人號是三陵、曰白鳥陵。然遂高翔上天、徒葬衣冠、因欲錄功名卽定武部也。是歲也、天皇踐祚卌三年焉。

現代語訳

その時(ヤマトタケルが能褒野陵に葬られたとき)に白鳥(シラトリ)になって、陵(ミサザキ=墓)から出て、倭国(ヤマトノクニ)を目指して飛びました。群臣等(マヘツキミタチ)はその棺櫬(ヒツギ)を開いて見ると、明衣(ミソ=神官の衣服・死装束)だけが空しく残っていて、屍骨(ミカバネ)は無かった。それで使者を派遣して白鳥を追い求めました。
すると倭(ヤマト)の琴弾原(コトヒキノハラ=地名未詳)に留まりました。それでそのところに陵(ミササギ)を造りました。白鳥はさらに飛んで河内(カウチ)に到着して、旧市邑(フルイチノムラ)に留まりました。その土地にまた陵を造りました。それで、その時代の人は、この三つの陵を名付けて白鳥陵(シラトリノミサザキ)といいます。しかし、ついに(白鳥)は高く飛んで天に昇っていきました。そこで衣冠(ミソカガフリ)を(遺体の代わりに)葬りました。その功名(ミナ)を録(ツタ=伝)えようと、武部(タケルベ)を定めました。
この歳、天皇が踐祚(アマツヒツギシロシメシテ=皇位について)43年です。
古事記の対応箇所
なづきの田の稲幹に
八尋白智鳥
浅小篠原腰なづむ
天皇の大御葬に歌ふ
河内国の志幾の白鳥御陵
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解説

武部
武部は、この文章から言えば「日本武尊」の功績を残すための集団ということになります。それが口伝なのか、筆記なのかはちょっとわからないけども、そういう意味になります。

でも、学会の一般的な見解は「武部は武人であって、それが日本武尊の功績を残す集団という設定になったのは後付け」というのが定説になっています。

わたしとしては何とも言えないのですが、久米氏が料理人であり、同時に軍事部門担当だったように、必ずしも別々の役割とは限らないと思うのです。現在の感覚では「武人」と「功績を残す集団」というのは別物と考えるのが当然ですが、古代では「神」という特殊な存在があるものですから、この二役を一つの集団である「武部」が請け負っていてもおかしくないのではないかと。「武部」とは武人であり「神の功績を伝える集団」でもあった、むしろこれはセットだった。

おそらく元々この時代の前から「ヤマトタケル」という神がいた。この景行天皇の時代にあった功績を「ヤマトタケル」という神に集約した。それで、その神の功績を残す役割を担った集団を「武部」とした。彼らはそもそも武人だった。なぜなら、戦争の勝敗は時の運がかなりを占める。だから、神に頼らざるを得ない。そこで機嫌よくなってもらって戦争に勝つために、神の功績を伝えることが「武人」の仕事の一つになった。それが「日本武尊」の功績を伝える「武部」という集団だった、のではないかと思っています。

もう一つ、日本人には「物語を捧げる」という感覚があったんじゃないかと思うのです。九州遠征・東征の中での手柄をヤマトタケルという神に捧げたんです。それでヤマトタケルという英雄は大きく育っていった。

これに近いものが「スサノオ」にもあります。高天原を追い出された「犯罪者」であるはずのスサノオが出雲では大蛇を退治する英雄になるのは、物語をスサノオに捧げたという経緯があったのではないかと。
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