尾張に直に向へる一つ松あはれ一つ松人にありせば衣着せましを太刀佩けましを

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景行天皇(三十九)尾張に直に向へる一つ松あはれ一つ松人にありせば衣着せましを太刀佩けましを

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原文

昔日本武尊向東之歲、停尾津濱而進食。是時、解一劒置於松下、遂忘而去。今至於此、是劒猶存、故歌曰、

烏波利珥 多陀珥霧伽幣流 比苔菟麻菟阿波例 比等菟麻菟 比苔珥阿利勢麼 岐農岐勢摩之塢 多知波開摩之塢

逮于能褒野、而痛甚之。則以所俘蝦夷等、獻於神宮。因遣吉備武彦、奏之於天皇曰「臣受命天朝、遠征東夷、則被神恩・頼皇威而叛者伏罪・荒神自調。是以、卷甲戢戈、愷悌還之。冀曷日曷時、復命天朝。然、天命忽至、隙駟難停、是以、獨臥曠野、無誰語之。豈惜身亡、唯愁不面。」既而崩于能褒野、時年卅。
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現代語訳

昔、日本武尊(ヤマトタケルミコト)は東に向かった年尾津浜(オツノハマ)に留まって食事をしました。このとき、一本の剣を抜いて、松の木の下に置きました。それを忘れて去りました。

そして今、ここ(尾津)に到着してみると、あの剣がまだありました。そこで歌を歌いました。

尾張に直(タダ)に向(ムカ)へる
一つ松あはれ
一つ松 人にありせば
衣(キヌ)着せましを
太刀(タチ)佩(ハ)けましを
歌の訳
尾張に向かって真っ直ぐに生えている一本松よ
一本松が人間だったら、服を着せ、太刀を佩かせてやるものを

能褒野(ノボノ)に到着しても、まだ痛みはひどいままでした。俘(トリコ=連れてきた)蝦夷を神宮(カミノミヤ=伊勢神宮のこと)に献上しました。吉備武彦(キビノタケヒコ)を派遣して、天皇に報告しました。
「臣(ヤツカレ=部下=自分のこと)は命令を天朝(ミカド)から承って、遠く東の夷(ヒナ=異民族)を征伐しました。神の恩恵を受け、皇(キミ=天皇)の威(イキオイ)によって、叛く者は罪に従い、荒ぶる神は自然と従いました。これを持って、甲(ヨロイ)を巻き、矛(ホコ)を納めて、愷悌(イクサトケ=戦争が終わって安心する)て、帰りました。願わくはいずれの日か、いずれの時にか、天朝(ミカド)に復命(カエリコトモウス=命令の報告)したいと思っています。しかし天命がたちまち至って、隙駟(ヒノアシ)止まり難しです。
ヒノアシは4頭の馬が引く馬車のことで、簡単には止まれないという意味。つまり死期が近く、どうしようもないという意味。今風にいうと「車は急に止まれない」。

一人荒野に伏し、誰に話しかけることもできません。どうして我が身の滅びることを惜しむのか(惜しむこともないくらいに十分に生きた)。ただ残念なのは(天皇に)お仕えすることができないということだけです」
すでに(日本武尊は)能褒野で崩御していました。
年齢は30歳でした。
古事記の対応箇所
尾津前の一松
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解説

歌の意味
この歌は尾張に向かって立つ松を「男」と見立てています。実はこの歌は「女性が歌う歌」でした。日本書紀にはありませんが、古事記にはこの歌に「アセヲ」という言葉が入っています。これは「吾兄を」という意味であり、もっと分かりやすく言うと「吾夫を」という意味です。妻のことを「妹」と表現するのと逆です。

女性の歌があり、それを日本神話の中に取り込んだわけです。
崩御
「崩」と書いて、カムサル、カムアガルと読みます。これは死んで「神」になるという考えからです。死んだことでこの字が当てられるのは「天皇」だけです。また「陵」という字も天皇の墓に当てられるものですが、ヤマトタケルの墓も「陵」という字が当てられています。

どうやらヤマトタケルは天皇だったか、天皇に匹敵するような存在だったようです。

個人的には景行天皇か成務天皇の業績を分離し、他の人物の功績を足したのが「ヤマトタケル」ではないか?と考えています。
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