東国の地名説話

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景行天皇(三十六)東国の地名説話

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原文

於是日本武尊曰「蝦夷凶首、咸伏其辜。唯信濃国・越国、頗未從化。」則自甲斐北、轉歷武藏・上野、西逮于碓日坂。時日本武尊、毎有顧弟橘媛之情、故登碓日嶺而東南望之三歎曰「吾嬬者耶(嬬、此云菟摩。)」故因號山東諸国、曰吾嬬国也。於是、分道、遣吉備武彦於越国、令監察其地形嶮易及人民順不。

現代語訳

日本武尊(ヤマトタケル)は言いました。
「蝦夷の凶(ア)しき首(ヒトドモ)はことごとく、その罪に従った。ただし、信濃国(シナノノクニ=北陸)・越国(コシノクニ=長野県)のみが、少し未だに化(オモブケ=王化=大和朝廷の影響下になること)に従わない」
すぐに甲斐から北の武蔵(ムサシ=現在の東京・埼玉・神奈川県の一部)・上野(カミツケ=上野毛=現在の群馬)を巡って西碓日坂(ニシノカタウスヒノサカ=現在の群馬県碓氷群・安中市の碓氷峠)に至りました。その時、日本武尊は毎日、弟橘媛(オトタチバナヒメ)を偲ぶ心がありました。それで碓日嶺(ウスヒノミネ)に登って、東南(タツミノカタ)を見て、三回嘆いて言いました。
「吾嬬はや(アズマハヤ)」
嬬は菟摩(ツマ)と読みます。

それで山の東の諸国を「吾嬬国(アズマノクニ)」といいます。ここから道を分けて、吉備武彦(キビノタケヒコ)を越国(コシノクニ)へと派遣し、その地形のあり方や人民の順不(マツロイマツロワヌ)を監察させました。
古事記の対応箇所
足柄山の白い鹿
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解説

化とは米作ではないか?
わたしはヤマトタケルの九州遠征は「貿易航路の開拓と確保」が目的であり、東征は「貿易航路の開拓と確保と米作普及」が目的ではないかと考えています。それは大和朝廷が東国と西国を結ぶ中間貿易で発展したのではないかと考えているからです。

その中で米を共通価値として普及させることで更に取引を活発にしたからこそ、さらなる日本の発展があったのでしょう。それでおそらく関東まで米を普及させることができました。当時は現在よりも気温が高く、関東での米作は何の問題もなく行われた筈です。しかし、東北や長野といって高冷地では米作は難しい。それが信濃国と越国が従わなかった理由だと推測しています(従わないというよりは気候の問題ですが)。
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