竹水門への入港

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景行天皇(三十四)竹水門への入港

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原文

爰日本武尊、則從上總轉、入陸奧国。時、大鏡懸於王船、從海路廻於葦浦、横渡玉浦、至蝦夷境。蝦夷賊首嶋津神・国津神等、屯於竹水門而欲距、然遙視王船、豫怖其威勢而心裏知之不可勝、悉捨弓矢、望拜之曰「仰視君容、秀於人倫、若神之乎。欲知姓名。」王對之曰「吾是現人神之子也。」於是、蝦夷等悉慄、則褰裳披浪、自扶王船而着岸。仍面縛服罪、故免其罪、因以、俘其首帥而令從身也。

現代語訳

日本武尊(ヤマトタケルミコト)はすぐに上総(カミツフサ)から移動して、陸奥国(ミチノクノクニ=東北地方の東)に入りました。そのときに大きな鏡を王船に掛けて、海路(ウミツヂ)から葦浦(アシノウラ=千葉県?)を回りました。
玉浦(タマノウラ)の横を通って、蝦夷(エミシ)との境に到着しました。蝦夷の賊首(アタゴノカミ=首領)、嶋津神(シマツカミ)、国津神(クニツカミ)たちは竹水門(タケノミナト)に居て、(入港を)防ごうとしました。しかし遥かに王船を見て、(戦闘の前に)その威勢(イキオイ)に恐れをなして、心の中で勝てないであろうことを知り、皆、弓矢を捨てて、(天皇を見て)拝んで言いました。
「仰いで、君の容(ミカホ=姿)を煮ると、人倫(ヒト)に優れているとわかりました。まるで神のよう。姓名(ミナ)を教えて下さい」
王は答えました。
「わたしは、現人神(アラヒトガミ)の子(ミコ)だ」
蝦夷たちは皆、かしこまりました。そしてすぐに裳(キモノ)を脱いで、波をかき分けて、王船を助けて着岸させました。面縛(ミズカラユワイ=両手を後ろにして顔を前に向けること=謝罪の動作)をして、服罪(シタガ)いました。
ヤマトタケルは)その罪を許しました。
その首師(ヒトゴノカミ)を俘(トリコ=俘囚)にして従身(=従者)としました。
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解説

古事記との差
古事記が焼津の後には足柄山へ行って、その後甲斐(山梨県)の酒折神社、茨城県の新治・筑波と通っていることを考えると、この新治と筑波がこのページの「蝦夷の境」なのかもしれません。
⚫︎ヤマトタケルの時代(4世紀)には現在より海抜が高く、筑波は霞ヶ浦の近くにあり港だった。新治は内陸。
⚫︎ちなみに香取と鹿島は半島の向かい合わせにあった。つまりこの二つの神社が船の入港を管理できる立地だった。神社の狛犬のように見張っていたという言い方もできる。
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