馳水の地名説話

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景行天皇(三十三)馳水の地名説話

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原文

亦進相摸、欲往上總、望海高言曰「是小海耳、可立跳渡。」乃至于海中、暴風忽起、王船漂蕩而不可渡。時、有從王之妾曰弟橘媛、穗積氏忍山宿禰之女也、啓王曰「今風起浪泌、王船欲沒、是必海神心也。願賤妾之身、贖王之命而入海。」言訖乃披瀾入之。暴風卽止、船得著岸。故時人號其海、曰馳水也。

現代語訳

また、相模(サガム=神奈川県中西部)に進んで、上総(カミフサ=千葉県房総半島)に行こうとしていました。そのとき、海を見て、高挙げ(コトアゲ=言挙げ)して言いました。
「これは小さな海だ。
立跳(タチオドリ=飛び上がること)で渡れるだろう」
すぐに海中(ワタナカ=海の沖の方)へと到着すると、暴風(アラキカゼ)がたちまち起き、王船(ミフネ)は漂い渡れませんでした。そのときに王に従う妾(オミナ)がいました。弟橘媛(オトタチバナヒメ)といいます。穂積氏忍山宿禰(ホヅミノウジノオシヤマノスクネ)の女(ムスメ)です。(弟橘媛が)王(=ヤマトタケル)に言いました。
「今、風邪が起き波が速くて、王船(ミフネ)が沈みそうになっています。これは必ず、海神(ワダツミ)の心(シワザ)です。願わくは賤(イヤ)しい妾(ヤッコ=私)の身を王の命に代えて海に入りましょう」
言葉が終わり、すぐに波を押し分けて入りました。暴風はすぐに泊まりました。船は岸に着きました。それでその時代の人はその海を馳水(ハシルミズ=現在の東京湾の浦賀水道)と呼んでいました。
古事記の対応箇所
弟橘比売命の入水
弟橘比売命の歌
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解説

古事記との違い
海に入りたまはむとする時に、菅畳(スガタタミ)八重(ヤヘ)・皮畳(カハタタミ)八重(ヤヘ)・絁畳(キヌタタミ)八重(ヤヘ)を波の上に敷きて、その上に下りましき。

古事記ではかなり細かく「どうやって入水したか」が描かれています。海に身を捧げて、海神の怒りを鎮めるという行為が「儀式」としてあったのでしょう。

関係あるかどうかははっきりしませんが、魏志倭人伝には「航海の前に、一人の人間を小屋に閉じ込めておいて、無事に航海が終えれば褒美をやり、航海が失敗すれば殺される、という風習が倭にはある」と書かれていました。魏志倭人伝の記述は3世紀で、景行天皇の時代はおそらくは4世紀ですから、関係があってもおかしくありません。

パッと読んだ感じでは、手法は違っていても感覚はかなり近いと思います。
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