東山道の十五国の都督

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景行天皇(四十八)東山道の十五国の都督

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原文

十二月、從東国還之、居伊勢也、是謂綺宮。

五十四年秋九月辛卯朔己酉、自伊勢還、於倭居纏向宮。

五十五年春二月戊子朔壬辰、以彦狹嶋王、拜東山道十五国都督、是豊城命之孫也。然、到春日穴咋邑、臥病而薨之。是時、東国百姓、悲其王不至、竊盜王尸、葬於上野国。

現代語訳

(即位53年)12月に東国(アズマ)より帰ってきて伊勢にいました。これを綺宮(カニハタノミヤ)といいます。

即位54年の秋9月19日。伊勢から倭(ヤマト)に帰って纒向宮(マキムクノミヤ)にいました。

即位55年の春2月5日。彦狹嶋王(ヒサシマノミコ)に東山道(ヤマノミチ)の十五国の都督(カミ)が参拝しました。(彦狹嶋王は)豊城命(トヨキノミコト崇神天皇の子で垂仁天皇の兄。参考:崇神天皇(二十一)相夢で皇太子を判断する(日本書紀))の孫です。春日の穴咋村(アナクイノムラ=奈良市古市)に到着して、病に伏し亡くなってしまいました。この時、東国の百姓はその王が到着しないことを悲しんで、密かに王の尸(カバネ=遺体)を盗んで上野国(カミツケノノクニ)に葬りました。
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解説

東山道
現在の、滋賀県・岐阜県・長野県・群馬県・栃木県・埼玉県・福島県・宮城県・青森県・岩手県・秋田県・青森県にあたります。琵琶湖から内陸部を通って東北の地域を指しています。
豊城命と彦狹嶋王
崇神天皇のとき、二人の子供に「夢」を報告させました。兄である豊城命は「武力」を示す夢を見て、弟の活目尊(イクメノミコト=垂仁天皇)は「農業」を示す夢を見ました。弟は天皇となり、兄は「東国」を管轄としました。

「武力」を持った兄である豊城命は東国に行き、上毛野君・下毛野君の始祖となっています。東国はかなり「ヤバイ」場所だったのでしょう。また、「毛野」という字があてられているのは「蝦夷」に「毛人」という字が当てられていることを考えても、倭とは違う文化圏だったと考えた方が良さそうです。

毛はおそらく「毛皮」です。蝦夷は「毛が多い」という意味ではなく、倭が「ケガレ」の文化圏であり、獣の屍体から剥ぎ取る毛皮を身につけることができなかったからではないかと。
屍体を盗む?
ヤマトタケルが東国を平定したことで、豊城命の孫にあたる彦狹嶋王が東国の15国を統治することになった。その道程で病死した。その病死した肢体を(百姓が)盗んで上野国へと持って行って葬った。

これはどういう意味なのやら。

もしかすると、春日の穴咋村で死んだのではなく、死んだのは東国で、しかも殺された、ということもあり得ますが、それなら春日の穴咋村という地名は残らないでしょう。

個人的な推測ですが、日本は山に穀物神がいて、それが田畑に降りて作物が実ると考えていました。逆に言うと神がいないと作物は実らないし、できるだけ強い神が山にいるべきと考えていた。そこで、天皇の子孫である彦狹嶋王を求めた、のではないかと。もちろん、大和朝廷が勢力を広げるためにそうしたのかもしれませんが、それなら「盗む」という表現は穏やかでないし、むしろ大和にとって面目が立たない。
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