吉備臣建日子(キビノオミタケヒコ)

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吉備臣建日子

投稿日時:2017-12-24 14:11:17
漢字・読みキビノオミタケヒコ
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吉備臣建日子(キビノオミタケヒコ)

まとめ
日本書紀では吉備武彦(キビノタケヒコ)。
●親の名前はない。
●新撰姓氏録によると孝霊天皇(7代)の皇子の稚武彦命の子孫。
●古事記では妹を、日本書紀では娘をヤマトタケルに嫁がせている。
日本書紀ではヤマトタケルの東国遠征に帯同している重要人物。

物語・由来

吉備臣建日子(キビノオミタケヒコ)は古事記に登場する人物名。日本書紀では「吉備武彦(キビノタケヒコ)」と表記される。記紀神話を読む限り、出自は書かれていないが、吉備人物で、『新撰姓氏録』によれば孝霊天皇(7代)の皇子の稚武彦命の子供か孫だと書かれている。ちなみに稚武彦命の異腹の兄弟がイセサリヒコ…別名「吉備津彦」、桃太郎の元ネタとされる人物。孝霊天皇の時代に吉備が大和朝廷に参加したのだと思われます。

古事記では妹の大吉備建比売(オオキビタケヒメ)をヤマトタケルに嫁がせています。日本書紀では娘の吉備穴戸武媛(キビノアナトノタケヒメ)を嫁がせています。大吉備建比売と吉備穴戸武媛は生んでいる子供の名前も多少違うので、もしかすると別人かもしれませんが、まぁ、同一人物と見ていいでしょう。
●古事記の大吉備建比売建貝児王(タケカイコ)を産んだ。
●日本書紀の吉備穴戸武媛は武卵王(タケカヒゴノミコ)と十城別王(トオキワケノミコ)を生んだ。
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ヤマトタケルの東征へ

日本書紀では吉備武彦がヤマトタケルとともに東国に行き、東国で別れて越国(コシノクニ)に行き、その後、信濃でヤマトタケルと再会。能褒野でヤマトタケルが死ぬ前に朝廷に報告に行くとなど、かなりの重要人物。そう考えると、妹にしろ娘にしろ、ヤマトタケルに嫁がせたことは当然って感じですよね。
●古事記では吉備臣建日子は東征に見られませんが、東征には「御鉏友耳建日子(ミスキトモミミタケヒコ)」が参加していて、彼が吉備臣建日子(吉備武彦)と同一人物である可能性はあり、古事記でも吉備臣建日子は東征に参加したと考えることもできる。
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名前について

吉備武彦・吉備臣建日子という名前はネーミングで考えると地名+タケ+彦とどこもオーソドックスなもので、これといった特徴はないんですが、日本創生の神話の中に「建日方別」なる神が登場して、これが吉備児島の名前なんですね。タケヒコというのはこの神との関わりから出ているんじゃないか?と思いますが、ま、タケヒコってのがそもそもオーソドックスな名前なんで、証拠にはなりませんが。

出自と子孫

古事記によると
記述なし
配偶者記述なし
吉備臣建日子
大吉備建比売(オオキビタケヒメ)

ヤマトタケル
大吉備建比売(オオキビタケヒメ)
建貝児王(タケカイコ)


日本書紀によると
吉備武彦(キビノタケヒコ)
配偶者記述なし
吉備穴戸武媛(キビノアナトノタケヒメ)

ヤマトタケル
吉備穴戸武媛(キビノアナトノタケヒメ)
武卵王(タケカヒゴノミコ)
十城別王(トオキワケノミコ)
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引用

古事記からの引用
ヤマトタケルの子孫・系譜
吉備臣建日子(キビノオミタケヒコ)の妹の大吉備建比売(オオキビタケヒメ)を娶って生んだ子が建貝児王(タケカイコ)です。


日本書紀からの引用
景行天皇(三十六)東国の地名説話
それで山の東の諸国を「吾嬬国(アズマノクニ)」といいます。ここから道を分けて、吉備武彦(キビノタケヒコ)を越国(コシノクニ)へと派遣し、その地形のあり方や人民の順不(マツロイマツロワヌ)を監察させました。

景行天皇(三十七)信濃の白い鹿を蒜で殺す
吉備武彦(キビノタケヒコ)は越から出て(日本武尊と)出会いました。

景行天皇(三十九)尾張に直に向へる一つ松あはれ一つ松人にありせば衣着せましを太刀佩けましを
能褒野(ノボノ)に到着しても、まだ痛みはひどいままでした。俘(トリコ=連れてきた)蝦夷を神宮(カミノミヤ=伊勢神宮のこと)に献上しました。吉備武彦(キビノタケヒコ)を派遣して、天皇に報告しました。

景行天皇(四十五)日本武尊の妃と子女
吉備武彦(キビノタケヒコ)の娘の吉備穴戸武媛(キビノアナトノタケヒメ)を妃として、武卵王(タケカヒゴノミコ)と十城別王(トオキワケノミコ)を生みました。
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