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御真木入日子印恵命
漢字・読み | ミマキイリヒコイニエノミコト |
別名 | 御間城入彥五十瓊殖天皇(ミマキイリヒコイニエノスメラミコト) |
御真木入日子印恵命(ミマキイリヒコイニエノミコト)
御真木入日子印恵命(ミマキイリヒコイニエノミコト)は崇神天皇(10代)のこと。ここでは主に古事記での出自と后妃について書きます。崇神天皇の詳細な内容は「 http://nihonsinwa.com/column/novel/14.html」をどうぞ。ページ数は多いですが、内容は決して多くないです。
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出自と名前
出自
父親は開化天皇(9代)。
母親は古事記によれば伊迦賀色許売命(イカガシコメノミコト)。
日本書紀では伊香色謎命(イカガシコメノミコト)と表記される。彼女は先代の孝元天皇(8代)の妃の一人で、開化天皇(9代)から見ると継母になる女性。倒錯してるなぁ。
古事記によれば伊迦賀色許売命は内色許男命(ウツシコヲノミコト)の娘。
内色許男命はニギハヤヒの子孫で穂積臣の祖先でもある。
となると、崇神天皇は穂積臣系の人物とも言える(素直に読めばね)。
崇神天皇の名前について
「崇神天皇」という名前に限らず、記紀のすべての天皇の名前は淡海三船がつけたものです。淡海三船(722-785)は大友皇子のひ孫。淡海三船が生まれたのは日本書紀成立後。となると日本書紀成立時点では崇神天皇なる名前はないわけです。これらは後から付帯されたのです。ところで、崇神天皇の「崇神」を「祟り神(タタリガミ)」と勘違いしている人がいませんでしょうか、「祟」と「崇」は似ているんですが、ちょっと違います。「崇」は似ているけど「あがめる」という時です。神を崇める天皇ならば、なんの問題もないんですが、この「崇」という時は、のちに「崇峻天皇(蘇我に暗殺された)」「崇道天皇(無実の罪で憤死した早良親王のこと)」「崇徳天皇(政争に敗れ憤死した天皇)」という非常に縁起の悪い天皇にも送られた時です。これ、偶然じゃないんです。なぜなら、少なくとも、崇峻天皇と崇道天皇に関しては淡海三船が存命していた時代以前の人物で、彼は間違いなく知っているはずだからです。
では、なぜ崇神天皇にこの字を当てたのか。
崇神天皇のところを読むと、大物主が祟りを起こして、国民の大半が死亡したことがあります。普通はそれを指して、「祟り神(=大物主)」と「神を崇める」天皇の両方をかけたのだと考えれば済むのですが、臣下に殺されて祟り神になってもおかしくない「崇峻天皇」に「崇」の字を送った以上は、崇神天皇にもそういったダークな部分があったと考えるべきではないかと思います。ただ、崇神天皇は別名「初国知らしし御真木天皇(ハツクニシラシシミマキノスメラミコト)」と呼ばれる中興の祖と言える偉人。祟り神になるような要素はないんです。「祟り神(=大物主)」と「神を崇める」をかけた名前で辻褄は合うのだけど、どうして「崇」を当てたのかは分からない。スッキリはしないのです。
私としては、崇神天皇は大物主の祟りの時に死んでしまったか、そもそもこの大物主の祟りそのものが、「御真木入日子印恵命=崇神天皇」の何かしらの憤死によって引き起こされたのではないかなんてことも考えています。それで社会は大混乱に陥った。そうして起きたのが「タケハニヤスヒコ」の反乱だった。まぁ、この反乱も果たして史実かどうかは分かりませんが……そうしてオオビコ命がこの反乱を鎮圧し、主導権を握った。その結果、オオビコの娘の御真津比売命と崇神天皇の間の息子の垂仁天皇(11代)が即位した。
父親は開化天皇(9代)。
母親は古事記によれば伊迦賀色許売命(イカガシコメノミコト)。
日本書紀では伊香色謎命(イカガシコメノミコト)と表記される。彼女は先代の孝元天皇(8代)の妃の一人で、開化天皇(9代)から見ると継母になる女性。倒錯してるなぁ。
古事記によれば伊迦賀色許売命は内色許男命(ウツシコヲノミコト)の娘。
内色許男命はニギハヤヒの子孫で穂積臣の祖先でもある。
となると、崇神天皇は穂積臣系の人物とも言える(素直に読めばね)。
崇神天皇の名前について
「崇神天皇」という名前に限らず、記紀のすべての天皇の名前は淡海三船がつけたものです。淡海三船(722-785)は大友皇子のひ孫。淡海三船が生まれたのは日本書紀成立後。となると日本書紀成立時点では崇神天皇なる名前はないわけです。これらは後から付帯されたのです。ところで、崇神天皇の「崇神」を「祟り神(タタリガミ)」と勘違いしている人がいませんでしょうか、「祟」と「崇」は似ているんですが、ちょっと違います。「崇」は似ているけど「あがめる」という時です。神を崇める天皇ならば、なんの問題もないんですが、この「崇」という時は、のちに「崇峻天皇(蘇我に暗殺された)」「崇道天皇(無実の罪で憤死した早良親王のこと)」「崇徳天皇(政争に敗れ憤死した天皇)」という非常に縁起の悪い天皇にも送られた時です。これ、偶然じゃないんです。なぜなら、少なくとも、崇峻天皇と崇道天皇に関しては淡海三船が存命していた時代以前の人物で、彼は間違いなく知っているはずだからです。
では、なぜ崇神天皇にこの字を当てたのか。
崇神天皇のところを読むと、大物主が祟りを起こして、国民の大半が死亡したことがあります。普通はそれを指して、「祟り神(=大物主)」と「神を崇める」天皇の両方をかけたのだと考えれば済むのですが、臣下に殺されて祟り神になってもおかしくない「崇峻天皇」に「崇」の字を送った以上は、崇神天皇にもそういったダークな部分があったと考えるべきではないかと思います。ただ、崇神天皇は別名「初国知らしし御真木天皇(ハツクニシラシシミマキノスメラミコト)」と呼ばれる中興の祖と言える偉人。祟り神になるような要素はないんです。「祟り神(=大物主)」と「神を崇める」をかけた名前で辻褄は合うのだけど、どうして「崇」を当てたのかは分からない。スッキリはしないのです。
私としては、崇神天皇は大物主の祟りの時に死んでしまったか、そもそもこの大物主の祟りそのものが、「御真木入日子印恵命=崇神天皇」の何かしらの憤死によって引き起こされたのではないかなんてことも考えています。それで社会は大混乱に陥った。そうして起きたのが「タケハニヤスヒコ」の反乱だった。まぁ、この反乱も果たして史実かどうかは分かりませんが……そうしてオオビコ命がこの反乱を鎮圧し、主導権を握った。その結果、オオビコの娘の御真津比売命と崇神天皇の間の息子の垂仁天皇(11代)が即位した。
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御真津比売命について
奇妙なことに崇神天皇の后「御真津比売命」と、崇神天皇の同母妹「御真津比売命」が「全く同じ名前」なんです。当然、同名の別人という可能性もありますが、どーなんでしょう。ちなみに日本書紀の崇神天皇には同母妹は記述されていません。元々は「同母兄妹の結婚」だった可能性もあります。
また、御真木入日子印恵命(=崇神天皇)に対して后が御真津比売命と、名前がそっくりです。日本書紀では「御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリヒコイニエノスメラミコト=崇神天皇)」に対して、皇后が御間城姫(ミマキヒメ)と、「御間城」が重複しています。
御間城入彦の皇后だから、御間城姫と呼ばれた……その可能性もあるのですが、両者は「神と巫女」のような特殊な関係だったのではないかと思います。例えば、大物主と倭迹々日百襲姫のような。倭迹々日百襲姫は子供を残しませんでしたが、御間城姫は残し、子供は垂仁天皇となった…?とか。
また、御真木入日子印恵命(=崇神天皇)に対して后が御真津比売命と、名前がそっくりです。日本書紀では「御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリヒコイニエノスメラミコト=崇神天皇)」に対して、皇后が御間城姫(ミマキヒメ)と、「御間城」が重複しています。
御間城入彦の皇后だから、御間城姫と呼ばれた……その可能性もあるのですが、両者は「神と巫女」のような特殊な関係だったのではないかと思います。例えば、大物主と倭迹々日百襲姫のような。倭迹々日百襲姫は子供を残しませんでしたが、御間城姫は残し、子供は垂仁天皇となった…?とか。
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后妃と子息子女
古事記の后妃と子息子女
遠津年魚目々微比売(トオツアユメマクハシヒメ)…木国造である荒河刀弁(アラカハトベ)の娘の
意富阿麻比売(オオアマヒメ)…尾張連の祖先
御真津比売命(ミマツヒメノミコト)…大毘古命(オオビコノミコト)の娘
日本書紀の后妃と子息子女
御間城姫(ミマキヒメ)
遠津年魚眼眼妙媛(トオツアユメマクハシヒメ)…紀伊国の荒河戸畔(アラカワトベ)の娘…異説によると「大海宿禰(オオアマノスクネ)の娘の八坂振天某邊(ヤサカフルアマイロベ)」
尾張大海媛(オワリノオオアマヒメ)
遠津年魚目々微比売(トオツアユメマクハシヒメ)…木国造である荒河刀弁(アラカハトベ)の娘の
意富阿麻比売(オオアマヒメ)…尾張連の祖先
御真津比売命(ミマツヒメノミコト)…大毘古命(オオビコノミコト)の娘
伊玖米入日子伊沙知命(イクメイリヒコイサチノミコト=垂仁天皇)
伊耶能真若命(イザノマワカノミコト)
国片比売命(クニカタヒメノミコト)
千々都久和比売命(チチツクワヒメノミコト)
伊賀比売命(イガヒメノミコト)
倭日子命(ヤマトヒコノミコト)
伊耶能真若命(イザノマワカノミコト)
国片比売命(クニカタヒメノミコト)
千々都久和比売命(チチツクワヒメノミコト)
伊賀比売命(イガヒメノミコト)
倭日子命(ヤマトヒコノミコト)
日本書紀の后妃と子息子女
御間城姫(ミマキヒメ)
活目入彦五十狹茅天皇(イクメイリヒコイサチノスメラミコト=垂仁天皇)
彦五十狹茅命(ヒコイサチノミコト)
国方姫命(クニカタヒメノミコト)
千々衝倭姫命(チチツクヤマトヒメノミコト)
倭彦命(ヤマトヒコノミコト)
五十日鶴彦命(イカツルヒコノミコト)
彦五十狹茅命(ヒコイサチノミコト)
国方姫命(クニカタヒメノミコト)
千々衝倭姫命(チチツクヤマトヒメノミコト)
倭彦命(ヤマトヒコノミコト)
五十日鶴彦命(イカツルヒコノミコト)
遠津年魚眼眼妙媛(トオツアユメマクハシヒメ)…紀伊国の荒河戸畔(アラカワトベ)の娘…異説によると「大海宿禰(オオアマノスクネ)の娘の八坂振天某邊(ヤサカフルアマイロベ)」
豊城入彦命(トヨキイリビコノミコト)
豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)
豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)
尾張大海媛(オワリノオオアマヒメ)
八坂入彦命(ヤサカノヒリヒコノミコト)
淳名城入姫命(ヌナキノイリヒメノミコト)
十市瓊入姫命(トオチニイリヒメノミコト)
淳名城入姫命(ヌナキノイリヒメノミコト)
十市瓊入姫命(トオチニイリヒメノミコト)
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古事記からの引用
開化天皇の子供たち
開化天皇の孫たち
祟神天皇の后妃と御子
祟神天皇の后妃と御子2
継母の伊迦賀色許売命(イカガシコメノミコト)を娶って産んだ子供は御真木入日子印恵命(ミマキイリヒコイニエノミコト=崇神天皇)と御真津比売命(ミマツヒメノミコト)のニ柱です。
開化天皇の孫たち
ミマキイリヒコイニエ命(=祟神天皇)は天下を治めました。
祟神天皇の后妃と御子
御真木入日子印恵命(ミマキイリヒコイニエノミコト=祟神天皇)は師木の水垣宮(ミズカキノミヤ)で天下を治めました。
祟神天皇の后妃と御子2
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