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推古天皇(三)厩戸豊聡耳皇子の出自
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夏四月庚午朔己卯、立厩戸豊聰耳皇子爲皇太子、仍錄攝政、以萬機悉委焉。橘豊日天皇第二子也、母皇后曰穴穗部間人皇女。皇后、懷姙開胎之日、巡行禁中監察諸司、至于馬官、乃當廐戸而不勞忽産之。生而能言、有聖智。及壯、一聞十人訴以勿失能辨、兼知未然。且習內教於高麗僧慧慈、學外典於博士覺哿、並悉達矣。父天皇愛之令居宮南上殿、故稱其名謂上宮廐戸豊聰耳太子。
現代語訳
(即位1年)夏4月10日。厩戸豊聡耳皇子(ウマヤトノトヨトミミノミコ=聖徳太子)を皇太子としました。摂政を行いました。万機(ヨロズノマツリゴト=政治の全て)を全て委ねました。橘豊日天皇(タチバナノトヨヒノスメラミコト=用明天皇)の第二子です。母は皇后の穴穂部間人皇女(アナホベノハシヒトノスメラミコト=欽明天皇の皇女で、用明天皇の皇后)です。皇后が懐妊し開胎(=生まれる)しそうな日の事。禁中(ミヤノウチ=宮中)を散歩して、諸々の司(ツカサ=役人)を監察していました。馬官(ウマノツカサ=馬の役人)のところに到着して、厩(ウマヤ=馬舎)の戸に当たって、苦しんで、すぐに出産しました。生まれた時からしゃべる事が出来ました。聖人の知恵がありました。壮年になって、1度に10人の訴えを聞いて、間違えないで、理解できました。また、未然(ユキサキノコト=未来のこと)を知っていました。また、内教(ホトケノミノリ=仏教)を高麗の僧の慧慈(エジ)に習い、外典(トツフミ=五経の事?)を博士の覚哿(カクカ)に学びました。他にも全てを学び達成しました。父の用明天皇は、皇子を愛し、宮の南の上殿(カミツミヤ)に居らせました。その名を称えて、上宮廐戸豊聡耳太子(カミツミヤノウマヤトノトヨトミミノヒツギノミコ)といいます。
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解説
厩戸豊聡耳皇子とは聖徳太子のこと。その出自が出ています。有名なエピソードとして上のものはよく聞きますね。
南の上殿
天皇って「天子南面」と言って、北を背にして、南を向くものです。北は不動の北極星があって、これを背にするということは、天皇が神から統治を任された存在であるという意味です。まぁ、これは中国の考えを受けたものなんですが。
さすがに天皇の北に皇子を置くわけにはいきませんが、「次にお前が天子南面になれよ」というニュアンスがあったんじゃないかと思います。厩戸皇子は、かなり優遇されていたのでしょう。
南の上殿
天皇って「天子南面」と言って、北を背にして、南を向くものです。北は不動の北極星があって、これを背にするということは、天皇が神から統治を任された存在であるという意味です。まぁ、これは中国の考えを受けたものなんですが。
さすがに天皇の北に皇子を置くわけにはいきませんが、「次にお前が天子南面になれよ」というニュアンスがあったんじゃないかと思います。厩戸皇子は、かなり優遇されていたのでしょう。
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推古天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page1 推古天皇(一)出自と即位の経緯
- Page2 推古天皇(二)法興寺の柱の礎に仏舎利を
- Page3 推古天皇(三)厩戸豊聡耳皇子の出自
- Page4 推古天皇(四)四天王寺の建立と氏族の寺
- Page5 推古天皇(五)沈香が淡路島に漂着・香木の最古の記述
- Page6 推古天皇(六)慧慈と慧聡が日本に・将軍たちが筑紫から帰る
- Page7 推古天皇(七)善徳臣を寺司に・鵲と孔雀と白鹿の献上
- Page8 推古天皇(八)地震・百済からラクダとロバと白いキジが献上される
- Page9 推古天皇(九)境部臣と穂積臣による新羅討伐
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