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推古天皇(四)四天王寺の建立と氏族の寺
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現代語訳
(即位1年)秋9月。橘豊日天皇(タチバナトヨヒノスメラミコト=用明天皇)を河内磯長陵(カフチノシナガノミサザキ=現在の大阪府南河内郡太子町春?)に改めて葬りました。この年、四天王寺(シテンノウジ=荒陵寺)を難波の荒陵(アラハカ=地名)に作り始めました。この年、太歲癸丑です。
即位2年春2月1日。皇太子と大臣に詔(ミコトノリ)して、三宝(サンポウ=仏・法・僧)を興して栄えさせようとしました。この時、諸々の臣連はそれぞれの親の恩のために競って仏舎(ホトケノオオトノ)を作りました。これを寺(テラ)と言いました。
即位2年春2月1日。皇太子と大臣に詔(ミコトノリ)して、三宝(サンポウ=仏・法・僧)を興して栄えさせようとしました。この時、諸々の臣連はそれぞれの親の恩のために競って仏舎(ホトケノオオトノ)を作りました。これを寺(テラ)と言いました。
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解説
用明天皇は聖徳太子(厩戸皇子)の父。この用明天皇を改めて葬っています。用明天皇は仏教を取り入れようとした天皇なのですが、病気で亡くなっています。その病気が「瘡」と表記されているので、どうも天然痘のようなのです。
ちなみに瘡という文字は敏達天皇の時代にも見られます。この時は仏像を焼いた祟りとして「瘡」が現れています。
用明天皇は非常に短い帝位でした。たったの2年です。しかも仏の祟りとしての天然痘。その子の聖徳太子が必死になって仏教を取り入れたのはそこにも理由はあったのではないかと思います。
テラについて
テラという言葉は朝鮮語から来ているとされます。そしてこの推古天皇の時代に、「テラ」と呼ばれるようになったのだと思われます。
ちなみに瘡という文字は敏達天皇の時代にも見られます。この時は仏像を焼いた祟りとして「瘡」が現れています。
用明天皇は非常に短い帝位でした。たったの2年です。しかも仏の祟りとしての天然痘。その子の聖徳太子が必死になって仏教を取り入れたのはそこにも理由はあったのではないかと思います。
テラについて
テラという言葉は朝鮮語から来ているとされます。そしてこの推古天皇の時代に、「テラ」と呼ばれるようになったのだと思われます。
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推古天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page1 推古天皇(一)出自と即位の経緯
- Page2 推古天皇(二)法興寺の柱の礎に仏舎利を
- Page3 推古天皇(三)厩戸豊聡耳皇子の出自
- Page4 推古天皇(四)四天王寺の建立と氏族の寺
- Page5 推古天皇(五)沈香が淡路島に漂着・香木の最古の記述
- Page6 推古天皇(六)慧慈と慧聡が日本に・将軍たちが筑紫から帰る
- Page7 推古天皇(七)善徳臣を寺司に・鵲と孔雀と白鹿の献上
- Page8 推古天皇(八)地震・百済からラクダとロバと白いキジが献上される
- Page9 推古天皇(九)境部臣と穂積臣による新羅討伐
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