四天王寺

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四天王寺

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概要

説明書きより
四天王寺は聖徳太子が推古天皇元年(593年)に摂政皇太子として最初に建立された寺であります。父帝の用明天皇が崩御(ホウギョ=天皇が死ぬこと)された後、皇位の継承を巡って崇仏派の蘇我馬子らと廃仏派の物部守屋らた相争ったとき、当時14歳の少年でありましたが、後の聖徳太子、厩戸豊聴耳皇子(ウマヤドノトヨミミノミコ)は馬子らの崇仏派のために仏法守護神である四天王に戦勝を祈願されたのです。幸い戦いは崇仏派の勝利に終わりました。聖徳太子は20歳の時、摂政皇太子となられるに及んで荒綾(アラハカ)の地に日本最初の官寺(カンシ=公的な寺)を建立して、ここに四天王を祀り、また四箇院(シカイン)の制に則って、各種の社会事業の施設を設けられました。

四天王寺が特に思想的に重要な意味を持つのは、ここに四箇院が建設されたことによってであり、四箇院とは敬田、悲田、施薬、療病の四つの施設のことであります。敬田院とは仏の智慧を悟るところ、つまりは仏教精神を基本に健全な教育を育み、悲田院は老人や孤児を救済する施設であり、施薬・療病の二院は今日の病院にあたります。仏教には古くから福田思想があり、太子もこの精神に則ってこれらの福祉施設をつくられたのでありましょう。この福祉施設は日本最初のものであり、後世に深い影響を与えたものであります。

四天王寺伽藍は日本で最も古い様式に配置され、一般に四天王寺式と呼ばれています。伽藍の中枢部は中門(仁王門)を入ると五重塔があり、金堂、講堂の順に南面して一直線上に建てられています。中門と講堂とを結んで左右に回廊があり、塔はもと仏の舎利をおさめたものであって仏をあらわし、金堂は法を、講堂は僧をあらわして、ここに仏法僧の三宝が象徴されているのです。なお、今次の再建にあたっては基壇にあたる地域が飛鳥を始めとする各時代の古瓦が発掘され、この寺の歴史を物語るものがありました。

今日においても聖徳太子ゆかりの霊場として、広く一般市民の信仰を集め、毎年春秋二季のお彼岸には百数十万の参拝者が参詣いたします。毎月21日の大師会(ダイシエ)にも常に数万の参拝者があり、境内には露店が軒を並べて賑わっています。今もなお「大阪市民のお仏壇」の名で、各宗各派を超えて信者を集めているのであります。

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