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用明天皇(三)皇后と子息子女
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元年春正月壬子朔、立穴穗部間人皇女爲皇后、是生四男、其一曰廐戸皇子(更名豊耳聰聖德、或名豊聰耳法大王、或云法主王)、是皇子初居上宮、後移斑鳩、於豊御食炊屋姫天皇世、位居東宮、總攝萬機、行天皇事、語見豊御食炊屋姫天皇紀、其二曰來目皇子、其三曰殖栗皇子、其四曰茨田皇子。立蘇我大臣稻目宿禰女石寸名爲嬪、是生田目皇子更名豊浦皇子。葛城直磐村女廣子、生一男一女、男曰麻呂子皇子、此當麻公之先也、女曰酢香手姫皇女、歷三代以奉日神。
現代語訳
即位1年春1月1日。穴穗部間人皇女(アナホベノハシヒトノヒメミコ)を皇后としました。4人の男(ヒコミコ)を生みました。その一人が厩戸皇子(ウマヤトノミコ)といいます。
この皇子は始めは上宮(カミツミヤ)に居ました。後に斑鳩(イカルガ)に移りました。豊御食炊屋姫天皇(トヨミケカシキヤヒメノスメラミコト=推古天皇)の世に東宮(ミコノミヤ)に居ました。万機(ヨロズノマツリゴト=政治)を摂政となって担当し、天皇の仕事を行いました。このことは豊御食炊屋姫天皇(=推古天皇)の紀に見えます。
二人目を来目皇子(クメノミコ)といいます。
三人目を殖栗皇子(エクリノミコ)といいます。
四人目を茨田皇子(マムタノミコ)といいます。
蘇我大臣稲目宿禰(ソガノオオオミイナメノスクネ)の娘の石寸名(イシキナ)を嬪(ミメ)としました。田目皇子(タメノミコ)を生みました。
葛城直磐村(カツラギノアタイワムラ)の娘の広子(ヒロコ)は一人の男(ヒコミコ)と一人の女(ヒメミコ)を生みました。男は麻呂子皇子(マロコノミコ)といいます。これは当麻公(タギマノキミ)の祖先です。女は酢香手姫皇女(スカテヒメノミコ)といいます。三代にわたって日神に仕えました。
別名に豊耳聡聖德(トヨミミトショウトク)、豊聡耳法大王(トヨトミミノノリノオオキミ)と名がついていました。あるいは法主王(ノリノウシノオオキミ)といいます。
この皇子は始めは上宮(カミツミヤ)に居ました。後に斑鳩(イカルガ)に移りました。豊御食炊屋姫天皇(トヨミケカシキヤヒメノスメラミコト=推古天皇)の世に東宮(ミコノミヤ)に居ました。万機(ヨロズノマツリゴト=政治)を摂政となって担当し、天皇の仕事を行いました。このことは豊御食炊屋姫天皇(=推古天皇)の紀に見えます。
二人目を来目皇子(クメノミコ)といいます。
三人目を殖栗皇子(エクリノミコ)といいます。
四人目を茨田皇子(マムタノミコ)といいます。
蘇我大臣稲目宿禰(ソガノオオオミイナメノスクネ)の娘の石寸名(イシキナ)を嬪(ミメ)としました。田目皇子(タメノミコ)を生みました。
別名を豊浦皇子(トユラノミコ)です。
葛城直磐村(カツラギノアタイワムラ)の娘の広子(ヒロコ)は一人の男(ヒコミコ)と一人の女(ヒメミコ)を生みました。男は麻呂子皇子(マロコノミコ)といいます。これは当麻公(タギマノキミ)の祖先です。女は酢香手姫皇女(スカテヒメノミコ)といいます。三代にわたって日神に仕えました。
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解説
田目皇子
上宮記・帝説には、父の用明天皇の死後に穴穂部皇后を娶り、佐富女王を生んだとか。かなりエグい内容ですが、史実でしょうか。
酢香手姫皇女
この皇女は「用明天皇(二)即位・酢香手姫皇女を伊勢神宮へ仕えさせる」にすでに登場済み。ということは、即位する前にできた娘と考えるべきでしょうね。
上宮記・帝説には、父の用明天皇の死後に穴穂部皇后を娶り、佐富女王を生んだとか。かなりエグい内容ですが、史実でしょうか。
酢香手姫皇女
この皇女は「用明天皇(二)即位・酢香手姫皇女を伊勢神宮へ仕えさせる」にすでに登場済み。ということは、即位する前にできた娘と考えるべきでしょうね。
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用明天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page1 用明天皇(一)出自
- Page2 用明天皇(二)即位・酢香手姫皇女を伊勢神宮へ仕えさせる
- Page3 用明天皇(三)皇后と子息子女
- Page4 用明天皇(四)穴穂部皇子は殯宮で炊屋姫皇后を襲う
- Page5 用明天皇(五)三輪君逆の逃避行
- Page6 用明天皇(六)馬子は穴穂部皇子を諌める・王たる者は刑人に近づけません
- Page7 用明天皇(七)三宝を敬う・穴穂部皇子は豊国法師を率いて
- Page8 用明天皇(八)阿都へ退く守屋・槻曲に籠もる馬子
- Page9 用明天皇(九)南淵の坂田寺の木の丈六仏像と狭寺の菩薩・崩御
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