即位・酢香手姫皇女を伊勢神宮へ仕えさせる

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用明天皇(二)即位・酢香手姫皇女を伊勢神宮へ仕えさせる

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原文

九月甲寅朔戊午、天皇天皇位。宮於磐余、名曰池邊雙槻宮。以蘇我馬子宿禰爲大臣、物部弓削守屋連爲大連、並如故。壬申、詔曰、云々。以酢香手姫皇女、拜伊勢神宮奉日神祀。(是皇女、自此天皇時逮乎炊屋姫天皇之世、奉日神祀。自退葛城而薨。見炊屋姫天皇紀。或本云、卅七年間奉日神祀、自退而薨。)

現代語訳

(敏達天皇即位14年)9月5日。用明天皇は天皇に即位しました。磐余(イワレ)に宮を作りました。池辺双槻宮(イケノヘノナミツキノミヤ)といいます。蘇我馬子宿禰(ソガノウマコノスクネ)を大臣とし、物部弓削守屋連を大連としました。これは元と同じです。

19日。詔(ミコトノリ)して言いました。云々(シカシカノタマエリ)。酢香手姫皇女(スカテヒメノミコ)を伊勢神宮(イセノオオミカミノミヤ)に拝(メ)して、日神(ヒノカミ)の祀(マツリ)に仕えさせました。
この皇女は、この用明天皇の時代から、炊屋姫天皇(カシキヤヒメノスメラミコト=推古天皇)の時代に及ぶまで、日神の祀に仕えていました。自ら、葛城(カツラキ)に退いて、死にました。炊屋姫天皇の紀(ミマキ)に見られます。ある本によると、37年の間、日神の祀りに仕えました。自ら退いて、死んだといいます。
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解説

用明天皇と伊勢の因縁
敏達天皇の時代に、敏達天皇の娘は伊勢神宮に仕えていたのですが、これが「池辺皇子」に犯されて、仕事を解任されています。この池辺皇女がどうも用明天皇ではないか?と言われています。

このページで伊勢神宮に仕えている酢香手姫皇女は用明天皇の娘です。用明天皇は父の欽明天皇や異母兄の敏達天皇とは違い、仏教も信奉しました。仏教と神道を両立させようとしたのでしょう。

池辺皇子と用明天皇が同一人物であるという証拠はありませんが、仮に同一人物だとして、用明天皇はその過去から伊勢神宮や神道から、警戒されていたのではないかと思います。神道があるから、恋愛は上手くいかなかった。それで神道を憎んでいるのではないか?と伊勢側に疑われた。その誤解を解くためもあり、神道に対して敵愾心を持っていないことの証明に、娘を伊勢神宮に仕えさせたのではないか?と思います。

まぁ、伊勢神宮に皇女を仕えさせるのは、これまでにもあったことで、特別に意味を持っているとは限りませんが、仏教と神道が交差するこの時代にあっては、単純に伝統に則ったとしても、それはそれで配慮があったと考えていいのではないでしょうか。
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