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欽明天皇(十)堅塩媛の13人の子
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次蘇我大臣稻目宿禰女曰堅鹽媛堅鹽、此云岐拕志、生七男六女、其一曰大兄皇子、是爲橘豊日尊、其二曰磐隈皇女更名夢皇女、初侍祀於伊勢大神、後坐姧皇子茨城解、其三曰臘嘴鳥皇子、其四曰豊御食炊屋姫尊、其五曰椀子皇子、其六曰大宅皇女、其七曰石上部皇子、其八曰山背皇子、其九曰大伴皇女、其十曰櫻井皇子、其十一曰肩野皇女、其十二曰橘本稚皇子、其十三曰舍人皇女。
現代語訳
次に蘇我大臣稲目宿禰(ソガノオオオミイナメノスクネ)の娘の堅塩媛(キタシヒメ)といいます。
7人の男と6人の女を生みました。
一人目が大兄皇子(オオエノミコ)といいます。これは橘豊日尊(タチバナノトヨヒノミコト=用明天皇)となります。二人目は磐隈皇女(イワクマノヒメミコ)…別名を夢皇女(イメノヒメミコ)といいます。最初は伊勢大神(イセノオオミカミ)に仕えて祀っていました。後に皇子の茨城(ウマラキ)に犯されて解任されました。三人目は臘嘴鳥皇子(アトリノミコ)といいます。四人目は豊御食炊屋姫尊(トヨミカシキヤヒメノミコト=推古天皇)といいます。五人目は椀子皇子(マロコノミコ)といいます。六人目は大宅皇女(オオヤケノヒメミコ)といいます。七人目を石上部皇子(イソノカミベノミコ)といいます。八人目を山背皇子(ヤマシロノミコ)といいます。九人目を大伴皇女(オオトモノヒメミコ)といいます。十人目を桜井皇子(サクライノミコ)といいます。十一人目を肩野皇女(カタノノヒメミコ)といいます。十二人目を橘本稚皇子(タチバナノモトノワカミコ)といいます。十三人目を舍人皇女(トネリノヒメミコ)といいます。
堅塩は岐拕志(キタシ)と読みます。
7人の男と6人の女を生みました。
一人目が大兄皇子(オオエノミコ)といいます。これは橘豊日尊(タチバナノトヨヒノミコト=用明天皇)となります。二人目は磐隈皇女(イワクマノヒメミコ)…別名を夢皇女(イメノヒメミコ)といいます。最初は伊勢大神(イセノオオミカミ)に仕えて祀っていました。後に皇子の茨城(ウマラキ)に犯されて解任されました。三人目は臘嘴鳥皇子(アトリノミコ)といいます。四人目は豊御食炊屋姫尊(トヨミカシキヤヒメノミコト=推古天皇)といいます。五人目は椀子皇子(マロコノミコ)といいます。六人目は大宅皇女(オオヤケノヒメミコ)といいます。七人目を石上部皇子(イソノカミベノミコ)といいます。八人目を山背皇子(ヤマシロノミコ)といいます。九人目を大伴皇女(オオトモノヒメミコ)といいます。十人目を桜井皇子(サクライノミコ)といいます。十一人目を肩野皇女(カタノノヒメミコ)といいます。十二人目を橘本稚皇子(タチバナノモトノワカミコ)といいます。十三人目を舍人皇女(トネリノヒメミコ)といいます。
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解説
まだ堅塩媛の妹の小姉君が妃となり子を産んでいますが、分割しています。
蘇我氏の娘の「堅塩媛」が妃となり、後の用明天皇と推古天皇を生みます。推古天皇は「最初の女性天皇」とされます(神功皇后と飯豊皇女は除く)。ここから蘇我氏が強権を握っていきます。
蘇我氏の娘の「堅塩媛」が妃となり、後の用明天皇と推古天皇を生みます。推古天皇は「最初の女性天皇」とされます(神功皇后と飯豊皇女は除く)。ここから蘇我氏が強権を握っていきます。
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