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欽明天皇(九)后妃と子息子女
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二年春三月、納五妃。元妃、皇后弟、曰稚綾姫皇女、是生石上皇子。次有皇后弟、曰日影皇女、此曰皇后弟、明是檜隈高田天皇女。而列后妃之名、不見母妃姓與皇女名字。不知出何書、後勘者知之。是生倉皇子。
現代語訳
即位2年春3月。5人の妃を召し入れました。はじめの妃は皇后の妹の綾姫皇女(ワカアヤヒメノミコ)と言います。石上皇子(イソノカミノミコ)を生みました。。次に皇后の妹の日影皇女(ヒカゲノヒメミコ)といいます。倉皇子(クラノミコ)を生みました。
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解説
長いし重要なので分割しました。
このページで挙げられているのが
皇后となった石姫皇女の妹たちの綾姫皇女・日影皇女の姉妹なのですが、日本書紀の宣化天皇のところに「日影皇女」という文字が無く、それに関しても日本書紀の編者が「どこの書からの引用か分からないが、今後明らかになるだろう」と書いてあるわけです。
普通に考えると「日影皇女=小石姫皇女」なのですが、宣化天皇に別に記述されていない妃がいて記述されなかった「異母姉妹」が「日影皇女」なのかもしれません。
このページで挙げられているのが
皇后となった石姫皇女の妹たちの綾姫皇女・日影皇女の姉妹なのですが、日本書紀の宣化天皇のところに「日影皇女」という文字が無く、それに関しても日本書紀の編者が「どこの書からの引用か分からないが、今後明らかになるだろう」と書いてあるわけです。
普通に考えると「日影皇女=小石姫皇女」なのですが、宣化天皇に別に記述されていない妃がいて記述されなかった「異母姉妹」が「日影皇女」なのかもしれません。
参考
宣化天皇(三)皇后と子息子女
「長女が石姫皇女(イシヒメノミコ)と言います。次が小石姫皇女(コイシヒメノミコ)、次が倉稚綾姫皇女(クラノワカヤヒメノミコ)、次が上殖葉皇子(カミツウエハノミコ)と言います。」
宣化天皇(三)皇后と子息子女
「長女が石姫皇女(イシヒメノミコ)と言います。次が小石姫皇女(コイシヒメノミコ)、次が倉稚綾姫皇女(クラノワカヤヒメノミコ)、次が上殖葉皇子(カミツウエハノミコ)と言います。」
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- Page5 欽明天皇(五)皇后と子息子女
- Page6 欽明天皇(六)己知部の帰化・磯城嶋金刺宮・漢人と秦人の戸籍
- Page7 欽明天皇(七)難波祝津宮への行幸・百済への4県割譲の失敗
- Page8 欽明天皇(八)大伴金村の仮病・罪を問わない
- Page9 欽明天皇(九)后妃と子息子女
- Page10 欽明天皇(十)堅塩媛の13人の子
- Page11 欽明天皇(十一)妃と子・帝王本紀と編纂の事情
- Page12 欽明天皇(十二)聖明王と任那の旱岐たち・卓淳の禍
- Page13 欽明天皇(十三)㖨己呑・南加羅・卓淳の滅亡の原因
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