聖明王と任那の旱岐たち・卓淳の禍

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欽明天皇(十二)聖明王と任那の旱岐たち・卓淳の禍

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原文

夏四月、安羅次旱岐夷呑奚・大不孫・久取柔利・加羅上首位古殿奚・卒麻旱岐・散半奚旱岐兒・多羅下旱岐夷他・斯二岐旱岐兒・子他旱岐等、與任那日本府吉備臣闕名字、往赴百濟、倶聽詔書。百濟聖明王、謂任那旱岐等言「日本天皇所詔者全以復建任那、今用何策起建任那、盍各盡忠奉展聖懷。」任那旱岐等對曰「前再三廻與新羅議、而無答報。所圖之旨、更告新羅、尚無所報。今宜倶遣使往奏天皇。夫建任那者爰在大王之意、祗承教旨、誰敢間言。然、任那境接新羅、恐致卓淳等禍。」等、謂㖨己呑・加羅。言、卓淳等国有敗亡之禍。
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現代語訳

(即位2年)夏4月。安羅(アラ=国名)の次旱岐夷呑奚(シカンキイトンケイ=次旱岐は役職名・夷呑奚は人名)・大不孫(ダイフソン=人名)・久取柔利(クスヌリ=人名)・加羅(カラ=国名)の上首位古殿奚(オコシシュリコデンケイ=上首位は役職名、古殿奚は人名)・卒麻(ソチマ=任那の一国)の旱岐(カンキ=役職名)・散半奚(サンハンゲ=地名)の旱岐の子・多羅(タラ=任那の一刻)の下旱岐夷他(アルシカンキイタ=下旱岐は役職名、夷他は人名)・斯二岐(シニキ=任那の一国)の旱岐の子・子他(シタ)の旱岐たちと、任那の日本府(=日本の出張所)の吉備臣…
名字は漏れている

と、百済に行き、ともに詔書(ミコトノリノフミ)を聴き受けました。百済の聖明王(セイメイオウ)は任那の旱岐たちに語って言いました。
「日本の天皇の詔(ノタマウ)ところは、もっぱら任那を復興し建国しろということだ。さて、どのような策略で任那を起こし健国したものか。それぞれの忠誠心を尽くし、聖懐(ミココロ=天皇の心)を安心させないわけにはいかないだろう」
任那の旱岐たちは答えて言いました。
「以前、再三再度、新羅と合議しました。しかし答え返すことはありませんでした。計画した主旨を新羅に伝えても、それでも尚、答えることはありませんでした。今、一緒に、使者を派遣して、進み出て天皇に報告するべきです。任那を再建することは大王(キミ=ここでは聖明王)の意(ココロ)にあることなのでしょう。その旨、慎み教えていただきました。しかし誰かが敢えて口を挟んで言いましょう。任那の国境は新羅と接しています。恐ろしいのは卓淳(トクジュン=任那の一国)のように禍(ワザワイ=新羅に攻め滅ぼされること)に合うのではないか?ということなのです」
卓淳等、というのは㖨己呑(トクコトン)・加羅(カラ)のことを言います。卓淳などの国のように敗れ滅んでしまう禍に合うのではないか?という意味です。
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解説

加羅は新羅との間で政略結婚をしたのですが、それが元で仲たがいをするという面倒な展開をしていました。それで国境を破られたのでしょうね。
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