南加羅と喙己呑の復興・高堂の謀議

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継体天皇(三十三)南加羅と喙己呑の復興・高堂の謀議

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原文

是月、遣近江毛野臣使于安羅、勅勸新羅更建南加羅・喙己呑。百濟遣將軍君尹貴・麻那甲背・麻鹵等、往赴安羅、式聽詔勅。新羅、恐破蕃国官家、不遣大人而遣夫智奈麻禮・奚奈麻禮等、往赴安羅、式聽詔勅。於是、安羅、新起高堂、引昇勅使、国主隨後昇階、国內大人、預昇堂者一二。百濟使將軍君等在於堂下、凡數月再三、謨謀乎堂上。將軍君等、恨在庭焉。

現代語訳

この月(即位23年春3月)に近江毛野臣(オウミノケナノオミ)を安羅(アラ=安羅には日本府があった)に使者として派遣しました。勅(ミコトノリ)して新羅に、南加羅(アリヒシノカラ)・喙己呑(トクコトン)を建てるよう勧めました。
百済は将軍君尹貴(イクサノキミインクイ)・麻那甲背(マナカフハイ)・麻鹵(マロ)などを派遣して安羅に行き、詔勅を聞きました。新羅は藩国(トナリノクニ)の官家(ミヤケ=直轄地)を侵略したことを恐れて、大人(タカキヒト=位の高い人)を派遣せず、夫智奈麻礼(ブチナマレ)・奚奈麻礼(ケナマレ)などを派遣して、安羅に行き、詔勅を聞きました。
安羅は新たに高堂(タカドノ)を立てて、勅使を率いて登りました。国の王は後ろに続いて階段を昇りました。国内の大人(タカキヒト)でも一緒に堂に登ったものは一人か二人でした。百済の使者の将軍君(イクサノキミ)たちは堂の下にいました。数ヶ月の間に再三、堂の上で謀議がありました。将軍君は庭に残されたことを恨みました。
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解説

安羅には日本府があり、日本の影響下にあったようです。
近江毛野臣
近江毛野臣は、そもそも新羅が侵略して取った南加羅・喙己呑を取り返すために、日本を出発したのですが、磐井の乱が起きたことで、朝鮮半島に行けなくなっていました。物部麁鹿火によって磐井の乱が鎮圧されて、やっとこそ毛野臣が新羅へ行けたわけです。

それでこの二国を復興させるのですが、「取り返す記述」が無いんですよね。戦争も何もなく、ただ毛野臣が朝鮮に行っただけで、領地が回復している。妙。
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