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継体天皇(三十六)小さいものが大きなものに仕えるのは天の道だ
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毛野臣大怒、責問二国使云「以小事大、天之道也。(一本云「大木端者、以大木續之。小木端者、以小木續之。」)何故二国之王、不躬來集受天皇勅、輕遣使乎。今縱汝王自來聞勅、吾不肯勅、必追逐退。」久遲布禮・恩率彌縢利、心懷怖畏、各歸召王。由是、新羅、改遣其上臣伊叱夫禮智干岐(新羅、以大臣爲上臣。一本云、伊叱夫禮知奈末)率衆三千、來請聽勅。毛野臣、遙見兵仗圍繞衆數千人、自熊川入任那己叱己利城。伊叱夫禮智干岐、次于多々羅原、不敬歸待三月、頻請聞勅。終不肯宣。
現代語訳
毛野臣は大いに怒って、二つの国(=百済と新羅)の使者を責めて問いました。
「小さいものが大きなものに仕えるのは天の道だ」
どうして二つの国の王は自ら来て集まって、天皇の勅(ミコトノリ)を受けず、軽い使者を派遣したのか。今、もし、お前たちの王が自ら来て、勅(ミコトノリ)を聞くとしても、吾(ワレ)は勅を伝えない。必ず、追い返す」
久遲布礼(クジフレ)・恩率彌縢利(オンソチミドリ)は心に畏まり、恐れる感情を抱いて、おのおのが帰って王を呼びました。これで新羅は改めて、その上臣(マカリダロ)伊叱夫禮智干岐(イシブレチカンキ)を派遣して、
衆(イクサ=兵士)を3000人率いて来て、勅(ミコトノリ)を聞こうと請願しました。毛野臣は遥か遠くから兵仗(ツワモノ=兵士・武器)が囲んで廻っている衆(イクサ)数千人
を見て、熊川(クマナレ)から任那の己叱己利城(コシコリノサシ)に入りました。伊叱夫礼智干岐(イシブレチカンキ)は多々羅原(タタラノハラ=現在の釜山の近くの多大浦)に泊まり、敬帰(ヨリクル=敬意を持って仕える)ことをしないで三ヶ月が経ちました。しきりに勅(ミコトノリ)を聞こうと請願してきたが、ついに肯宣(ノリゴト)しなかった。
「小さいものが大きなものに仕えるのは天の道だ」
ある本によると、大木の端は大木の枝を継ぐ。小木の端には小木を継ぐと言ったといいます。
どうして二つの国の王は自ら来て集まって、天皇の勅(ミコトノリ)を受けず、軽い使者を派遣したのか。今、もし、お前たちの王が自ら来て、勅(ミコトノリ)を聞くとしても、吾(ワレ)は勅を伝えない。必ず、追い返す」
久遲布礼(クジフレ)・恩率彌縢利(オンソチミドリ)は心に畏まり、恐れる感情を抱いて、おのおのが帰って王を呼びました。これで新羅は改めて、その上臣(マカリダロ)伊叱夫禮智干岐(イシブレチカンキ)を派遣して、
新羅では大臣を上臣といいます。
またある本では伊叱夫礼知奈末(イシブレチナマ)と言います。
またある本では伊叱夫礼知奈末(イシブレチナマ)と言います。
衆(イクサ=兵士)を3000人率いて来て、勅(ミコトノリ)を聞こうと請願しました。毛野臣は遥か遠くから兵仗(ツワモノ=兵士・武器)が囲んで廻っている衆(イクサ)数千人
を見て、熊川(クマナレ)から任那の己叱己利城(コシコリノサシ)に入りました。伊叱夫礼智干岐(イシブレチカンキ)は多々羅原(タタラノハラ=現在の釜山の近くの多大浦)に泊まり、敬帰(ヨリクル=敬意を持って仕える)ことをしないで三ヶ月が経ちました。しきりに勅(ミコトノリ)を聞こうと請願してきたが、ついに肯宣(ノリゴト)しなかった。
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解説
言葉の意味が違う
「小さいものが大きなものに仕えるのは天の道だ」が指す意味は、非常に儒教的な意味合いです。儒教では上下関係が大事で、弱いものは強いものにつき従わないといけません。そういう「世界観」です。
しかし別伝で書かれた「大木の端は大木の枝を継ぐ。小木の端には小木を継ぐ」というのは、「大きいものと対等になれるのは、それなりに大きなもの」という意味です。これって大して違いが無いように思えますが、ニュアンスが全然違います。
別伝では「日本に対して、新羅・百済は交渉するにふさわしい」という意味合いになるからです。本伝の発言とはかなり違います。
おそらく「別伝」が本当に言った言葉で、「本伝」は記紀編纂のときに「日本が格上」として儒教的に書いたものではないかと思います。
結局は王は来ない
日本の要請を無視して新羅王は結局また、臣下を送ってきました。それで毛野臣はさらにブチキレることになったと。
「小さいものが大きなものに仕えるのは天の道だ」が指す意味は、非常に儒教的な意味合いです。儒教では上下関係が大事で、弱いものは強いものにつき従わないといけません。そういう「世界観」です。
しかし別伝で書かれた「大木の端は大木の枝を継ぐ。小木の端には小木を継ぐ」というのは、「大きいものと対等になれるのは、それなりに大きなもの」という意味です。これって大して違いが無いように思えますが、ニュアンスが全然違います。
別伝では「日本に対して、新羅・百済は交渉するにふさわしい」という意味合いになるからです。本伝の発言とはかなり違います。
おそらく「別伝」が本当に言った言葉で、「本伝」は記紀編纂のときに「日本が格上」として儒教的に書いたものではないかと思います。
結局は王は来ない
日本の要請を無視して新羅王は結局また、臣下を送ってきました。それで毛野臣はさらにブチキレることになったと。
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