誓湯と吉備韓子の那多利・斯布利の殺害

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継体天皇(三十九)誓湯と吉備韓子の那多利・斯布利の殺害

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原文

秋九月、任那使奏云「毛野臣、遂於久斯牟羅起造舍宅、淹留二歲一本云三歲者、連去來歲數也、懶聽政焉。爰以日本人與任那人頻以兒息、諍訟難決、元無能判。毛野臣、樂置誓湯曰、實者不爛、虛者必爛。是以、投湯爛死者衆。又、殺吉備韓子那多利・斯布利(大日本人娶蕃女所生、爲韓子也)、恆惱人民、終無和解。」

現代語訳

(即位24年)秋9月。任那の使者が申し上げました。
「毛野臣(ケナノオミ)はついに久斯牟羅(クシムラ)で舎宅(イエ)を起こし作って、留まること2歳(フタトセ)。
ある本に3歳(ミトセ)とあるのは、往来する歳の数を入れているからです。

政治を聞いても、気が散っていて怠けています。日本人と任那人とが頻繁に子供を産んで、それでその子供の帰属(日本人か?任那人か?)で訴訟があり、それを決めるのは難しいというのに、最初から判断しようとしません。毛野臣は楽して、誓湯(ウケイユ)を置いて言います。
『真実なものはただれない。嘘があるものは必ずただれる』
それで熱湯に投げ入れて、ただれて死ぬものが多い。また、吉備韓子(キビノカラコ)那多利(ナタリ)・斯布利(シフリ)を殺しました。
大日本(オオヤマト)の人は藩(トナリグニ)の女を娶って産んだ子を「韓子(カラコ)」と呼びました。

常に人民(オオミタカラ)を悩まして、ついに和解することはありませんでした」
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解説

誓湯(ウケイユ)
誓湯は盟神探湯のことと思われます。盟神探湯は沸騰したお湯に手を突っ込んで、火傷したら「有罪」というシンプルかつ非客観的な裁判です。しかし、この記事を読むと、盟神探湯というのは、真偽がわからない場合の最終手段で、本来は、ちゃんと話を聞いて判断するのが「当たり前」という感覚はあったようですね。

韓子
蘇我韓子宿禰というのが雄略天皇の時代に登場しています。蘇我韓子宿禰はおそらく朝鮮半島の女性が母親ということでしょう。母親の名前は残っていません。
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