調吉士の報告・毛野臣の葬送・目頰子

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継体天皇(四十二)調吉士の報告・毛野臣の葬送・目頰子

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原文

冬十月、調吉士至自任那、奏言「毛野臣、爲人傲恨、不閑治體、竟無和解、擾亂加羅、倜儻任意而思不防患。」故、遣目頰子、徵召。目頰子、未詳也。是歲、毛野臣、被召到于對馬、逢疾而死。送葬、尋河而入近江。其妻歌曰、
比攞哿駄喩 輔曳輔枳能朋樓 阿苻美能野 愷那能倭倶吾伊 輔曳符枳能朋樓
目頰子、初到任那時、在彼鄕家等、贈歌曰、
柯羅屨儞嗚 以柯儞輔居等所 梅豆羅古枳駄樓 武哿左屨樓 以祇能和駄唎嗚 梅豆羅古枳駄樓

現代語訳

(即位24年)冬10月。調吉士(ツキノキシ)は任那から至って、申し上げました。
「毛野臣は人となりは傲(モトリ=理に背くこと)、いすかしく、治体(マツリゴト)には慣れていません。ついに和解することなく、加羅を混乱させ、倜儻(タカホ=自分勝手)で、自分の意のままに思って、患いを防ぎません」
それで目頰子(メヅラコ)を派遣して、呼び寄せました。
目頰子の詳細は分かりません。

この年、毛野臣は呼び出されて、対馬に至り、病にあって死にました。送葬(ハブ)るときに、河のままに近江に入りました。その妻が歌を歌いました。
枚方(ヒラカタ)ゆ 笛吹き上(ノボ)る 近江のや 毛野(ケナ)の若子(ワクゴ)い 笛吹き上る
歌の訳枚方を通り、笛を吹いて河を上る。近江の毛野の若殿が笛を吹いて河を上るよ。

目頰子は初めて任那に至ったときに、そこにある鄕家(イエヒト=家・人)たちが歌を贈って言いました。
韓国(カラクニ)を 如何(イカ)に言(フ)ことそ 目頰子(メヅラコ)来(キタ)る むかさくる 壱岐(イキ)の済(ワタリ)を 目頰子来る
歌の訳韓国に何を言いに、目頰子は来たのか。向こうの、遠くにある壱岐の海路から目頰子が来たよ。
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解説

歌について
日本は歌や演劇によって歴史を残したんじゃないかと個人的に考えています。
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