背評の攻防

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継体天皇(四十一)背評の攻防

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原文

由是、悉知行迹、心生飜背、乃遣久禮斯己母使于新羅請兵、奴須久利使于百濟請兵。毛野臣、聞百濟兵來、迎討背評(背評地名、亦名能備己富里也)、傷死者半。百濟、則捉奴須久利、杻械枷鏁而共新羅圍城、責罵阿利斯等曰、可出毛野臣。毛野臣、嬰城自固、勢不可擒。於是、二国圖度便地、淹留弦晦、筑城而還、號曰久禮牟羅城。還時觸路、拔騰利枳牟羅・布那牟羅・牟雌枳牟羅・阿夫羅・久知波多枳五城。

現代語訳

それで阿利斯等は毛野臣のすべての行迹(アルカタチ=事情)がわかって、心をひるがえして、背くことにしました。久礼斯己母(クレシコモ)を新羅に使者として派遣して、兵(イクサ)を請願しました。また、奴須久利(ヌスクリ)を百済に使者として送って兵を請願しました。毛野臣は百済の兵が来ると聞いて、背評(ヘコホリ)の迎え撃ちました。
背評は地名です。別名を能備己富里(ノビコオリ)といいます。

傷つき死ぬ者は半数。百済は奴須久利を捕虜にして、杻械枷鏁(アシカシテカシクビカシカナツナガリ=足と手と首に枷をして鉄の鎖で獄につなぐ)をして、新羅と共に城(サシ)を囲みました。阿利斯等を責め罵って言いました。
「毛野臣を出すべし!」
毛野臣は城に頼って守りを固めました。その勢力は崩せず、捕らえることは出来ませんでした。そこで二つの国は代わりの土地を図度(ハカル=自分の領土とする際、その土地の状況を調査すること)するために、そこに一ヶ月留まりました。城を築いて帰りました。その城を久礼牟羅城(クレムラノサシ)といいます。帰る時に、触路(ミチナラシ=道すがら)に騰利枳牟羅(トリキムラ)・布那牟羅(フナムラ)・牟雌枳牟羅(ムシキムラ)・阿夫羅(アブラ)・久知波多(クチハタキ)の五つの城を抜き取った。
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解説

背評
位置はよくわからない。
継体天皇(三十七)河内馬飼首御狩の拳骨・新羅軍による村の略奪・巨勢男人の死での「背伐(ヘボツ)」と同じ土地ではないかとも言われます。

ちなみに「評」は、その後でいうところの「郡」と同じ意味ですが、郡は土地を「君主」のものとしている考えがあって「君へん」の「郡」です。
ごちゃごちゃした関係
そもそも毛野臣は新羅と百済と任那の関係改善にやって来たのですね。ところがうまくいかず、ダラダラとしていた。それに怒った任那の王の阿利斯等が新羅と百済に兵を要請した。この時点で変。なぜ敵対しているはずの新羅と百済に頼るのか。次に百済に送った使者である奴須久利は百済に捕らえられ、手足首を繋がれてしまう。その上で、兵を送ったというのは、なんだか「道理」が通らない。その上、城に篭った毛野臣をそのままに新羅と百済は、周辺の土地の調査をして、「自国のものだ」と主張し、城も取ってしまった。こうなるとこの一連の騒動は単なる「侵略戦争」に過ぎないわけです。
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