紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小鹿火宿禰を新羅へ

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雄略天皇(三十一)紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小鹿火宿禰を新羅へ

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原文

三月、天皇欲親伐新羅、神戒天皇曰「無往也。」天皇由是、不果行、乃勅紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連(談、此云箇陀利)・小鹿火宿禰等曰「新羅、自居西土、累葉稱臣、朝聘無違、貢職允濟。逮乎朕之王天下、投身對馬之外、竄跡匝羅之表、阻高麗之貢、呑百濟之城。況復朝聘既闕、貢職莫脩。狼子野心、飽飛、飢附。以汝四卿、拜爲大將、宜以王師薄伐、天罰龔行。」

現代語訳

天皇は自ら新羅を征伐しようと思い、神は天皇を戒めて言いました。
「行くな」
天皇はこれにとって征伐に行くのを止めました。紀小弓宿禰(ソガノオユミノスクネ)・蘇我韓子宿禰(ソガノカラコノスクネ)・大伴談連(オオトモノカタリノムラジ)・小鹿火宿禰(オカヒノスクネ)たちに勅(ミコトノリ)して言いました。
談は箇陀利(カタリ)と読みます。

「新羅はもとより、西土(ニシノクニ)にある。葉(ヨ=世と同じ意味)を重ねて従ってきた。朝廷に詣でなかったことは無い。貢職(ミツキ=貢物)は許してきた。朕の天下の王になって、その身を対馬の外に投げ置いて、その跡を匝羅(サフラ=朝鮮半島の草羅城のこと)の表に隠して、高麗の貢物を邪魔して、百済の城を呑んで(=侵略)した。また朝廷に詣でなくなり、貢職(ミツキ=貢物)を納めなくなった。狼の子のような野(アラキ=荒い)心があり、飽きてしまえば飛んで去り、飢えればやってきる。お前たち4人の卿(マヘツノキミ=臣下)を拝して大将とする。王師(ミイクサ=天皇の軍隊)を持って、攻め討ち取って、天罰を慎んで行え」
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解説

4人の卿
蘇我韓子は蘇我馬子や入鹿の祖先にあたる人物。大伴談は大伴金村など祖先。紀小弓はこの後、死んでしまいますが「紀」という名前は紀貫之・紀角宿禰などの祖先で本来は非常に名士の家柄。小鹿火宿禰はほぼ未詳。よくわかりません。
貢職
訳本では「貢賦のこと」と書いてあるのですね。でも貢賦をわざわざ「貢職」と書いたのには意味があると思います。貢賦は「下から上に差し出す貢物・もしくは上が下かた取り立てる税」とあります。このままの意味ならば貢職とは書かなかったでしょう。

想像ですが、大和朝廷というものがそもそも「共和国」だったのです。大和朝廷という強い権力が地方の国を従わせているのではなく、吉備・出雲・筑紫・播磨といった地方の国々が協力して「大和朝廷」という共和国を形成していたのでしょう。大和朝廷はおそらく「宗教」を中心にした「交易を共通の利益とした共和国」であり、共同政府という感じだったのだと思います。

無論、「税」とか「貢物」は取り立てていましたが、それはまぁ、「自治会費」という感じだったんじゃないかと。このページで「高麗の貢」という文字があるので、高麗が大和朝廷に服属していた感じがしますが、(推測ですが)大和朝廷は「日本経済研の参加料」のようなものを「貢」と呼んでいただけなんじゃないかと思うのです(少なくともこの時代は)。その税(貢)とは別に地方から「人材の出向」を求めた。それが「貢職」なんじゃないかな?と。「職」という字をあてる以上は、人間を求めたという意味でしょう。職ということは「工人」だったと。

技術者を朝廷は新羅に求めた。新羅はそれを出したくなかった。なぜなら新羅には特別な「生産物」が少なかった。鉄が沢山取れるのですが、それは任那や百済でも取れた。任那や百済はすでに日本の勢力下にあったから、新羅の特色というか交易での優位なところが「技術者」だった。それを朝廷が求めたのだから、反発した…というのがこのあたりの物語の本質なんじゃないかと思うのですね。
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