妃と子・帝王本紀と編纂の事情

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欽明天皇(十一)妃と子・帝王本紀と編纂の事情

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原文

次堅鹽媛同母弟曰小姉君、生四男一女、其一曰茨城皇子、其二曰葛城皇子、其三曰泥部穴穗部皇女、其四曰泥部穴穗部皇子(更名天香子皇子。一書云、更名住迹皇子)、其五曰泊瀬部皇子。(一書云「其一曰茨城皇子、其二曰泥部穴穗部皇女、其三曰泥部穴穗部皇子、更名住迹皇子、其四曰葛城皇子、其五曰泊瀬部皇子。」一書云「其一曰茨城皇子、其二曰住迹皇子、其三曰泥部穴穗部皇女、其四曰泥部穴穗部皇子、更名天香子、其五曰泊瀬部皇子。」帝王本紀、多有古字、撰集之人、屢經遷易。後人習讀、以意刊改、傳寫既多、遂致舛雜、前後失次、兄弟參差。今則孝覈古今、歸其眞正、一往難識者、且依一撰而註詳其異。他皆效此)。次春日日抓臣女曰糠子、生春日山田皇女與橘麻呂皇子。
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現代語訳

次に堅塩媛(キタシヒメ)の同母妹の小姉君(オアネノキミ)といいます。四人の男と一人の女を生みました。その一人目が茨城皇子(ウマラキノミコ)といいます。二人目を葛城皇子(カツラキノミコ)といいます。三人目は泥部穴穗部皇女(ハシヒトノアナホベノヒメミコ)といいます。四人目は泥部穴穗部皇子(ハシヒトノアナホベノミコ)といいます。
別名を天香子皇子(アマツカコノミコ)といいます。ある書にでは、別名を住迹皇子(スミトノミコ)といいます。

五人目は泊瀬部皇子(ハツセベノミコ)といいます。
ある署によると、その一人目を茨城皇子(ウマラキノミコ)といいます。その二人目を泥部穴穗部皇女(ハシヒトノアナホベノヒメミコ)といいます。三人目を泥部穴穗部皇子(ハシヒトノアナホベノミコ)といいます。別名を住迹皇子(スミトノミコ)。四人目が葛城皇子(カツラキノミコ)といいます。五人目が泊瀬部皇子(ハツセベノミコ)といいます。

また別の書によると、一人目が茨城皇子、二人目が住迹皇子、三人目が泥部穴穗部皇女、四人目が泥部穴穗部皇子、別名を天香子(アマツカコ)、五人目が泊瀬部皇子といいます。

帝王本紀(スメラミコトノフミ)には沢山の古い文字が有り、撰集する人がよく変わってきました。その後の人が習い読むときにも、意図的に削ったり、改めたりしています。伝え写す(写本すること)ことが既に多く、舛雜(タガイマヨウコト=違い迷うこと=間違えること)している。前後の順序が失われて兄弟の順序も違っている。今、古いことを考え推測して、真正(マコト)に帰した。ただし、知り得ないことは、まず一つを選んで、その異なるものを注釈して詳細に書くことにした。他も皆、これに従う。

次に春日日抓臣(カスガノヒツメノオミ)の娘の糠子(アラコ)といいます。春日山田皇女(カスガノヤマダノヒメミコ)と橘麻呂皇子(タチバナノマロノミコ)を生みました。
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解説

帝王本紀
この記述を読むと、少なくとも天皇家の系譜を残した書物があったことは間違いなさそう。その成立がいつなのかは分かりませんが、この記述が完全に正しいとなると、帝王本紀の編纂が7世紀とかそのあたりとは思えない。もっと古いと考えるべきでしょう。
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