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用明天皇(八)阿都へ退く守屋・槻曲に籠もる馬子
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是時、押坂部史毛屎、急來、密語大連曰「今、群臣圖卿、復將斷路。」大連聞之卽退於阿都(阿都大連之別業所在地名也)集聚人焉。中臣勝海連、於家集衆隨助大連。遂作太子彦人皇子像與竹田皇子像、厭之。俄而知事難濟、歸附彦人皇子於水派宮。(水派、此云美麻多。)舍人迹見赤檮、伺勝海連自彦人皇子所退、拔刀而殺。(迹見姓也。赤檮名也。赤檮、此云伊知毗。)大連、從阿都家、使物部八坂・大市造小坂・漆部造兄、謂馬子大臣曰「吾聞、群臣謀我。我故退焉。」馬子大臣、乃使土師八嶋連於大伴毗羅夫連所、具述大連之語。由是、毗羅夫連、手執弓箭皮楯、就槻曲家、不離晝夜守護大臣。槻曲家者、大臣家也。
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現代語訳
このとき、押坂部史毛屎(オシサカベノフビトケクソ)は慌てて来て、密かに大連に語って言いました。
「今、群臣(マヘツキミタチ)は卿(ウシ=ここでは物部守屋のこと)を図って嵌めようとしています。まさに道を断とうとしています」
大連はそれを聞いて、すぐに阿都(アト=河内国渋川郡跡部郷=現在の大阪府八尾市跡部)に退いて
そこで人を集めました。中臣勝海連は家に衆(イクサ=兵士)を集めて、大連に従って助けました。太子の彦人皇子(ヒコヒトノミコ)の像と、竹田皇子(タケダノミコ)の像を作って呪いをしました。しばらくして、事がなり難いと分かって、帰って彦人皇子と水派宮(ミマタノミヤ=大和国広瀬郡城戸郷=現在の奈良県北葛城郡広陵町大塚?)に着きました。
舍人迹見赤檮(トネリトミノイチヒ)は勝海連が彦人皇子のところから退くのを伺い見て、刀を抜いて殺しました。
大連は阿都の家から、物部八坂(モノノベノヤサカ)・大市造小坂(オオイチノミヤツコオサカ)・漆部造兄(ヌリベノミヤツコアニ)を使者として送り、馬子大臣に語って言いました。
「わたしめは、群臣がわたしを謀殺しようとしていると聞いた。わたしはそれで退く」
馬子大臣はすぐに土師八嶋連(ハジノヤシマノムラジ)を大伴毗羅夫連(オオトモノヒラブノムラジ)の所へと使者として送って、詳細に大連の言葉を述べました。それで毗羅夫連は手に弓矢と皮の盾を持って、槻曲(ツキクマ=地名だが未詳)の家に行って、昼夜離れず、大臣を守護しました。
「今、群臣(マヘツキミタチ)は卿(ウシ=ここでは物部守屋のこと)を図って嵌めようとしています。まさに道を断とうとしています」
大連はそれを聞いて、すぐに阿都(アト=河内国渋川郡跡部郷=現在の大阪府八尾市跡部)に退いて
阿都は大連の別業(ナリドコロ=別荘)のあるところの地名です。
そこで人を集めました。中臣勝海連は家に衆(イクサ=兵士)を集めて、大連に従って助けました。太子の彦人皇子(ヒコヒトノミコ)の像と、竹田皇子(タケダノミコ)の像を作って呪いをしました。しばらくして、事がなり難いと分かって、帰って彦人皇子と水派宮(ミマタノミヤ=大和国広瀬郡城戸郷=現在の奈良県北葛城郡広陵町大塚?)に着きました。
水派は美麻多(ミマタ)と読みます。
舍人迹見赤檮(トネリトミノイチヒ)は勝海連が彦人皇子のところから退くのを伺い見て、刀を抜いて殺しました。
迹見は姓です。赤檮は名前です。赤檮は伊知毗(イチヒ)と読みます。
大連は阿都の家から、物部八坂(モノノベノヤサカ)・大市造小坂(オオイチノミヤツコオサカ)・漆部造兄(ヌリベノミヤツコアニ)を使者として送り、馬子大臣に語って言いました。
「わたしめは、群臣がわたしを謀殺しようとしていると聞いた。わたしはそれで退く」
馬子大臣はすぐに土師八嶋連(ハジノヤシマノムラジ)を大伴毗羅夫連(オオトモノヒラブノムラジ)の所へと使者として送って、詳細に大連の言葉を述べました。それで毗羅夫連は手に弓矢と皮の盾を持って、槻曲(ツキクマ=地名だが未詳)の家に行って、昼夜離れず、大臣を守護しました。
槻曲(ツキクマ)の家は大臣の家です。
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解説
彦人皇子と竹田皇子
彦人皇子は敏達天皇と広姫の子で、蘇我氏の血を引いていない人物です。結局は天皇にはなれませんでしたが、舒明天皇の父で皇極天皇の祖父なのですから、権力と縁遠いというのも違います。
竹田皇子は敏達天皇と豊御食炊屋姫尊…推古天皇との子です。推古天皇は蘇我馬子から見ると姪っ子ですから、バリバリの蘇我氏系皇子となります。
この二者は穴穂部皇子を天皇にしようとした物部守屋からすれば確かに「政敵」なので、像を作って呪いを掛けて殺そうとしても不思議じゃないです。
個人的には、二者の像を作って呪いを掛けるというのは、呪い殺すのではなく、像で「皇子」の代わりを作って、「自分こそが官軍!」と主張しようとしたのではないか?とも思います。なにせ竹田皇子はともかく、彦人皇子は血統だけからいうと「神道派」のハズなんですよね。
彦人皇子は敏達天皇と広姫の子で、蘇我氏の血を引いていない人物です。結局は天皇にはなれませんでしたが、舒明天皇の父で皇極天皇の祖父なのですから、権力と縁遠いというのも違います。
竹田皇子は敏達天皇と豊御食炊屋姫尊…推古天皇との子です。推古天皇は蘇我馬子から見ると姪っ子ですから、バリバリの蘇我氏系皇子となります。
この二者は穴穂部皇子を天皇にしようとした物部守屋からすれば確かに「政敵」なので、像を作って呪いを掛けて殺そうとしても不思議じゃないです。
個人的には、二者の像を作って呪いを掛けるというのは、呪い殺すのではなく、像で「皇子」の代わりを作って、「自分こそが官軍!」と主張しようとしたのではないか?とも思います。なにせ竹田皇子はともかく、彦人皇子は血統だけからいうと「神道派」のハズなんですよね。
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用明天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page4 用明天皇(四)穴穂部皇子は殯宮で炊屋姫皇后を襲う
- Page5 用明天皇(五)三輪君逆の逃避行
- Page6 用明天皇(六)馬子は穴穂部皇子を諌める・王たる者は刑人に近づけません
- Page7 用明天皇(七)三宝を敬う・穴穂部皇子は豊国法師を率いて
- Page8 用明天皇(八)阿都へ退く守屋・槻曲に籠もる馬子
- Page9 用明天皇(九)南淵の坂田寺の木の丈六仏像と狭寺の菩薩・崩御
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