三宝を敬う・穴穂部皇子は豊国法師を率いて

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用明天皇(七)三宝を敬う・穴穂部皇子は豊国法師を率いて

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原文

二年夏四月乙巳朔丙午、御新嘗於磐余河上。是日、天皇得病還入於宮、群臣侍焉。天皇詔群臣曰「朕思欲歸三寶、卿等議之。」群臣入朝而議、物部守屋大連與中臣勝海連、違詔議曰「何背国神、敬他神也。由來不識若斯事矣。」蘇我馬子宿禰大臣曰「可隨詔而奉助、詎生異計。」於是、皇弟皇子(皇弟皇子者、穴穗部皇子)、卽天皇庶弟引豊国法師闕名也入於內裏。物部守屋大連、耶睨大怒。

現代語訳

即位2年夏4月2日。磐余(イワレ)の河上(カワカミ)で御新嘗(ニイナエキコシメス=後の大嘗祭と思われる=大嘗祭は天皇即位の儀式)を行いました。この日に天皇は病気になり、宮に帰りました。群臣(マヘツキミタチ)が側にいました。天皇は群臣に詔(ミコトノリ)して言いました。
「朕(ワレ)、三宝(サンポウ=仏・法・僧)に帰依しようと思う。おまえたち、話し合え」
群臣は朝廷に入って、会議をして話し合いました。物部守屋大連(モノノベノモリヤオオムラジ)と中臣勝海連(ナカトミノカツミノムラジ)は詔(ミコトノリ)の議(ハカライ)に反抗して言いました。
「どうして国神(クニツカミ)に背いて、他神(アタシカミ)を敬うのですか! 由来(モトヨリ)、このようなことは分かりません!」
蘇我馬子宿禰大臣(ソガノウマコノスクネノオオオミ)は言いました。
「詔(ミコトノリ)に従って、助け奉るべきだ。誰が、奇妙な計画をなそうとしているのか」
それで皇弟皇子(スメイロドノミコ=天皇の弟の皇子)は…
皇弟皇子は穴穂部皇子のことで、用明天皇の同母弟です。

豊国法師(トヨクニノホウシ)…
豊国法師の名は分かりません。

を率いて、内裏に入りました。物部守屋大連は睨んで大いに怒りました。
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解説

前年の穴穂部皇子の騒乱によって、用明天皇の即位の儀式は遅れました。その場で用明天皇は仏教へのくら替えを宣言。その場に、穴穂部皇子が法師を引き連れて登場したものだから、物部守屋は憤慨します。

前年の騒乱の根本は穴穂部皇子が天皇になろうとした騒乱でした。それを後押しした物部守屋は、仏教への傾倒を避けるためで、利害が一致したからなのですが、穴穂部皇子は決して「仏教を嫌い、神道を重んじた」からではなく、純粋に権力欲だったか、嫉妬だったか、ともかく、物部守屋と全く考えが一緒というわけではなかった。だから仏教には興味があった。

おそらく、当時の日本は神道の限界を感じていたのでしょう。敬いはする。祟りは怖い。だから無視はしないが、仏教の利便性は必要だ。そういう社会情勢があったのでしょう。
話し合うこと
用明天皇は「三宝を重視するよ」と宣言はするものの、その詳細は群臣に話し合わせるというスタイルです。これってアマテラスが天安川で八百万の神と会議したのと同じなんですよね。天皇はおそらく、組織の中心ではあっても、組織の頂点とは違った。部下に力でいうことを聞かせる「封建制の王」とは違ったのでしょう。
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