熊野(クマノ)

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熊野

漢字・読みクマノ
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熊野(クマノ)

熊野(クマノ)は地名。
熊野という言葉は「熊野久須毘命(クマノクスビミコト)」という神の名前の中にも見られます。これも「地名」なのかも知れませんが、「熊」が「神と同義」の言葉で、地名ではない可能性もあります。ここでは明らかに地名として登場したものについて書いています。

熊野には二つある

熊野という土地は二つあります。
神武天皇の東征の途中でたどり着く土地として紀伊国の「熊野」が現れます。もう一つは出雲国の熊野大社です。二つの「熊野」が存在するのは、おそらく、出雲国の熊野の人たちが紀伊国の熊野に移住したためじゃないかと思われます。これは出雲神話の中で、オオナムチ八十神に追われて紀伊国のオオヤビコの元に逃げ込んだことと関係があるでしょう。

ヨークの人たちが移住して「ニューヨーク」が出来たのと一緒です。となれば、畿内の「熊野」とは出雲の感覚を持った地域となります。
神武天皇
熊野に訪れた神武天皇一行は現地の神の毒にやられて意識を失います。その一行を救ったのが「熊野高倉下(クマノノタカクラジ)」です。彼が天から使わされた「剣」を届けたことで一行を救ったのですが、その剣を天から降ろしたのが「武甕雷神(タケミカヅチ)」です。タケミカヅチは出雲の国譲りを果たした高天原の神です。偶然とは思えませんよね。出雲も、大和の熊野でも皇統の進出に「タケミカヅチ」が大きな役割を果たしたんです。

熊野は「出雲」との繋がりがある土地です。
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古事記からの引用

熊野で意識を失う
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ命)はそこから南に回り、熊野村に到着しました。
すると、大熊髣(オオクマホノカ)がチラリと姿を見せて居なくなりました。

熊野の高倉下の横刀
このとき、熊野の高倉下(タカクラジ=人名)が
一本の刀を持ち、
天津神の皇子であるイワレビコが倒れているところにやってくると、
イワレビコはすぐに目を覚まし起き上がり、
「長いこと寝ていたなぁ」と言いました。

熊野の荒ぶる神は倒される
イワレビコがその刀を受け取ると
熊野の山の荒ぶる神は、自然と切り倒されてしまいました。
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日本書紀からの引用

第八段一書(六)-2粟の茎に昇ったら、はじかれて常世の国へ
その後、スクナヒコナは熊野の御崎に行って、そこから常世郷(トコヨノクニ)に行ってしまいました。

六月乙未朔丁巳(一)稻飯命と三毛入野命の死
狹野(サノ=和歌山県新宮市佐野)を越えて熊野の神邑(ミワノムラ=新宮市三輪崎)に到着しました。また天磐盾(アメノイワタテ=新宮市熊野速玉神社の神倉山か?)に登り、軍を率いて進みました。

六月乙未朔丁巳(二)高倉下の夢
神武天皇は一人息子の手硏耳命(タギシノミミノミコト)と軍を率いて進み、熊野荒坂津(クマノアラサカツ)に到着しました。
別名を丹敷浦(ニシキノウラ)と言います

その人の名前は熊野高倉下(クマノノタカクラジ)といいます。
熊野高倉下(クマノノタカクラジ)は夢を見ました。
夢の中で天照大神(アマテラスオオカミ)が武甕雷神(タケミカヅチ)に言っていました。

仁徳天皇(二十二)皇后は怒り、難波から山代、奈良、小楯、倭、葛城から最後は山代の筒城岡へ
即位30年秋9月11日。
皇后は紀国(キノクニ)へと行きました。熊野岬(クマノミサキ)に到着して、そのところの御綱葉(ミツナカシワ)を取って帰りました。
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