白祷原宮・橿原宮(カシハラノミヤ)

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カシハラノミヤ

漢字・読み白祷原宮・橿原宮
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白祷原宮・橿原宮(カシハラノミヤ)

古事記では白祷原宮(カシハラノミヤ)。
日本書紀では橿原宮(カシハラノミヤ)。
神武天皇が政務を行なった場所がカシハラノミヤ。

白祷原宮・橿原宮(カシハラノミヤ)の解説

辛酉年春正月庚辰朔 神武天皇が帝位に」に「畝傍(ウネビ)の橿原(カシハラ)に宮柱(ミヤハシラ=宮殿の柱)を底磐(シタツイワ=柱を支える岩)の根元にしっかりと立てて、高天原(タカマガハラ)に峻峙(チギ=宮殿の屋根で木材が交差する部分)が届くくらいに高くしよう」と橿原宮のことが書いてあるんですが、これが古事記の「大国主が国譲りに当たって宮を建ててよ」と要求した時の表現とほとんど同じです。

となると橿原宮は出雲大社(杵築大社)と「感覚は近い」わけです。

ところで白祷原宮の「祷」は祈るという意味です。白祷が「橿」と読むってことは、白祷原宮は樹霊信仰なんじゃないかと。
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古事記からの引用

ニギハヤヒが宝を献上する
イワレビコはそうして荒ぶる神を説得して平定し、抵抗するものを撃退し、畝火(ウネビ)の白祷原宮(カシハラノミヤ)で天下を治めました。

引田部の赤猪子
天皇はとても驚きました。
「私はもう以前のことは忘れてしまった。しかしお前が志を守り、命(ミコトノリ=命令)を待って、盛りの年を過ぎたのはとても愛(ウツク)しく悲しいことだ」
天皇は内心では結婚しようと思ったのですが、極めて老いており、結婚するのはできないと悲しんで歌を歌いました。
御諸(ミモロ)の 斎(イツ)つ樫(カシ)がもと 樫がもと 斎斎しきかも 樫原乙女(カシハラオトメ)
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日本書紀からの引用

三月辛酉朔丁卯 六合を一つにして八紘までを家にする
その後に六合(クニノウチ=東西南北と天と地を合わせて六合)を一つにして都を開き、八紘(アメノシタ=北・北東・東……と合わせて八方向のこと)の隅々まで「宇(イヘ…家)」にすることは、良いことだ。見ると畝傍山(ウネビヤマ)の東南の橿原(カシハラ)は国の墺(モナカ…真ん中)だろうから、ここを治めよう」

辛酉年春正月庚辰朔 神武天皇が帝位に
春1月の1日の元旦に、神武天皇は橿原宮(カシハラノミヤ)で帝位につきました。この年を天皇の元年としました。正妃(=ヒメタタライスズヒメノミコト)を皇后としました。
皇子の神八井命(カムヤイノミコト)と神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)が生まれました。
それで褒めて言いました。
「畝傍(ウネビ)の橿原(カシハラ)に宮柱(ミヤハシラ=宮殿の柱)を底磐(シタツイワ=柱を支える岩)の根元にしっかりと立てて、高天原(タカマガハラ)に峻峙(チギ=宮殿の屋根で木材が交差する部分)が届くくらいに高くしよう

卌有二年春正月壬子朔甲寅 神武天皇の崩御
神武天皇が即位して76年の春3月11日。
天皇は橿原宮(カシハラノミヤ)で崩(カムアガリ=神になって天に上がる=死ぬ)しました。そのときの年齢は127歳でした。翌年の秋9月の12日に畝傍山(ウネビヤマ)の北東の稜(ミサギ=墓)に埋葬しました。
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