スポンサードリンク
引田部の赤猪子
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket書き下し文
また一時に天皇遊び行きて美和河に到りし時に、河の邊に衣を洗う童女有り。其の容姿甚麗し。天皇、其の童女に問いしく、「汝は誰が子ぞ」。答えて白さく、「己が名は引田部の赤猪子と謂う」。爾くして詔らさしめくは、「汝は夫に嫁わずあれ。今、喚してん」とのらさしめて宮に還り坐しき。故、其の赤猪子、天皇の命を仰ぎ待ちて既に八十歳を經たり。ここに赤猪子、以爲えらく、「命を望う間に、已に多の年を經ぬ。姿體痩せ萎えて更に恃む所無し。然れども待ちつる情を顯わすに非ずは悒きに忍えず」。百取の机代の物を持たしめて、參い出でて貢獻りき。然れども天皇、既に先の命の事を忘れて其の赤猪子に問いて曰く、「汝は誰が老女ぞ。何の由以に參い來つる」。爾くして赤猪子、答えて白さく、「其の年の其の月に天皇の命を被りて、大命を仰ぎ待ちて今日に至るまで八十歳を經たり。今は容姿既に耆いて更に恃む所無し。然れども己が志を顯し白さんとて以ちて參い出でつるのみ」。ここに天皇、大きに驚らきて、「吾は既に先の事を忘れたり。然れども汝が志を守りて命を待ちて徒に盛りの年を過しつるは、是、甚愛し悲し」。心の裏には婚わんと欲えど、其の極めて老いて婚い成すを得ざるを悼みて御歌を賜いき。其の歌に曰く、
美母呂能 伊都加斯賀母登 賀斯賀母登 由由斯伎加母 加志波良袁登賣
また歌いて曰く、
比氣多能 和加久流須婆良 和加久閇爾 韋泥弖麻斯母能 淤伊爾祁流加母
爾くして赤猪子の泣く涙、悉く其の服せる丹摺の袖を濕しき。其の大御歌に答えて歌いて曰く、
美母呂爾 都久夜多麻加岐 都岐阿麻斯 多爾加母余良牟 加微能美夜比登
また歌いて曰く、
久佐迦延能 伊理延能波知須 波那婆知須 微能佐加理毘登 登母志岐呂加母
爾くして多たの祿を其の老女に給いて、以ちて返えし遣りき。 故、此の四つの歌は志都歌なり。
美母呂能 伊都加斯賀母登 賀斯賀母登 由由斯伎加母 加志波良袁登賣
また歌いて曰く、
比氣多能 和加久流須婆良 和加久閇爾 韋泥弖麻斯母能 淤伊爾祁流加母
爾くして赤猪子の泣く涙、悉く其の服せる丹摺の袖を濕しき。其の大御歌に答えて歌いて曰く、
美母呂爾 都久夜多麻加岐 都岐阿麻斯 多爾加母余良牟 加微能美夜比登
また歌いて曰く、
久佐迦延能 伊理延能波知須 波那婆知須 微能佐加理毘登 登母志岐呂加母
爾くして多たの祿を其の老女に給いて、以ちて返えし遣りき。 故、此の四つの歌は志都歌なり。
スポンサードリンク
現代語訳
ある時のことです。雄略天皇は遊びに出かけ、美和河(ミワガワ)に到着したとき、川辺に衣を洗う童女(オトメ)が有りました。その容姿(カタチ)はとても麗しいものでした。そこで天皇はその童女(おとめ)に問いました。
「お前は誰の子だ?」
答えました。
「私の名前は引田部(ヒケタベ=大和国城上軍辟田=現在の奈良県桜井市初瀬付近)の赤猪子(アカイコ)といいます」
それで詔(ミコトノリ)しました。
「お前は夫に嫁がないでいろ。今に宮中に呼び寄せるから」
と言って、天皇は宮に帰りました。それでその赤猪子(アカイコ)は天皇の命令のままに待って80歳になりました。それで赤猪子(アカイコ)は思いました。
「命令を待ち望んでいる間に、わたしは多くの年を取ってしまいました。姿形は痩せ萎(シナ)びてしまい、もう嫁ぐところもありません。しかし天皇を待つ気持ちを表さないでいるには悒(イブセキ=不快に思う)きに思い、耐えられない」
百取(モモトリ=沢山)の机代(ツクエシロ=机に載せた)の物(=ここでは献上品のこと)を持たせて、参上して献上しました。しかし天皇は以前の命(ミコトノリ)のことを忘れて赤猪子(アカイコ)に問いました。
「お前はどこの老女(オウナ)だ? どうして参上して来た?」
赤猪子は答えて言いました。
「これこれの年のこれこれの月に天皇の命(ミコトノリ=命令)を受けて、大命(オオミコトノリ=ここでは宮中へと呼び寄せる命)を待って今日に至り80歳になりました。今は容姿はすでに老いてもう嫁ぐところもありません。しかし私の志をお伝えしようと参上したのです」
天皇はとても驚きました。
「私はもう以前のことは忘れてしまった。しかしお前が志を守り、命(ミコトノリ=命令)を待って、盛りの年を過ぎたのはとても愛(ウツク)しく悲しいことだ」
天皇は内心では結婚しようと思ったのですが、極めて老いており、結婚するのはできないと悲しんで歌を歌いました。
御諸(ミモロ)の 斎(イツ)つ樫(カシ)がもと 樫がもと 斎斎しきかも 樫原乙女(カシハラオトメ)
また歌いました。
引田の 若栗栖原 若くへに 率寝てましもの 老いにけるかも
それで赤猪子は泣いて涙でその服の丹摺(ニズリ=赤い丹を刷り込んだ)袖を濡らしました。その天皇の歌に答えて歌いました。
御諸に 築くや玉垣 築きあまし 誰かも依らむ 神の宮人
また歌って言いました。
日下江の 入り江の蓮(蜂巣・ハチス) 花蓮(ハナバチス) 身の盛り人 羨(乏・トモ)しきろかも
そうして多くの贈り物をその老女に与えて、返してやりました。それでこの四つの歌は志都歌(シツウタ)といいます。
「お前は誰の子だ?」
答えました。
「私の名前は引田部(ヒケタベ=大和国城上軍辟田=現在の奈良県桜井市初瀬付近)の赤猪子(アカイコ)といいます」
それで詔(ミコトノリ)しました。
「お前は夫に嫁がないでいろ。今に宮中に呼び寄せるから」
と言って、天皇は宮に帰りました。それでその赤猪子(アカイコ)は天皇の命令のままに待って80歳になりました。それで赤猪子(アカイコ)は思いました。
「命令を待ち望んでいる間に、わたしは多くの年を取ってしまいました。姿形は痩せ萎(シナ)びてしまい、もう嫁ぐところもありません。しかし天皇を待つ気持ちを表さないでいるには悒(イブセキ=不快に思う)きに思い、耐えられない」
百取(モモトリ=沢山)の机代(ツクエシロ=机に載せた)の物(=ここでは献上品のこと)を持たせて、参上して献上しました。しかし天皇は以前の命(ミコトノリ)のことを忘れて赤猪子(アカイコ)に問いました。
「お前はどこの老女(オウナ)だ? どうして参上して来た?」
赤猪子は答えて言いました。
「これこれの年のこれこれの月に天皇の命(ミコトノリ=命令)を受けて、大命(オオミコトノリ=ここでは宮中へと呼び寄せる命)を待って今日に至り80歳になりました。今は容姿はすでに老いてもう嫁ぐところもありません。しかし私の志をお伝えしようと参上したのです」
天皇はとても驚きました。
「私はもう以前のことは忘れてしまった。しかしお前が志を守り、命(ミコトノリ=命令)を待って、盛りの年を過ぎたのはとても愛(ウツク)しく悲しいことだ」
天皇は内心では結婚しようと思ったのですが、極めて老いており、結婚するのはできないと悲しんで歌を歌いました。
御諸(ミモロ)の 斎(イツ)つ樫(カシ)がもと 樫がもと 斎斎しきかも 樫原乙女(カシハラオトメ)
歌の訳御諸(ミモロ=神霊の篭る台座であり三輪の大神神社を指す)の社の神聖な樫の木の根元の、樫の木の根元のように、(手に触れられないほどに)神聖な樫原の乙女よ
また歌いました。
引田の 若栗栖原 若くへに 率寝てましもの 老いにけるかも
歌の訳引田の若い栗が取れる林のように、若いときに添い寝していたらなぁ。老いてしまったなぁ。
それで赤猪子は泣いて涙でその服の丹摺(ニズリ=赤い丹を刷り込んだ)袖を濡らしました。その天皇の歌に答えて歌いました。
御諸に 築くや玉垣 築きあまし 誰かも依らむ 神の宮人
歌の訳御諸(ミモロ=ここでは三輪の大神神社)に築いた立派な玉垣。築いたけど余った玉垣は誰を頼りにしようか。神の宮人である私は……
また歌って言いました。
日下江の 入り江の蓮(蜂巣・ハチス) 花蓮(ハナバチス) 身の盛り人 羨(乏・トモ)しきろかも
歌の訳日下の港の入り江の蓮。その蓮の花のように、若く美しい盛りの人が、羨ましいなぁ
そうして多くの贈り物をその老女に与えて、返してやりました。それでこの四つの歌は志都歌(シツウタ)といいます。
スポンサードリンク
解説
なんかコメディ
これまでの残虐な雄略天皇の伝承から打って変わって、なんだか「コメディタッチ」な物語。子供の頃に「嫁にしてやる」と言った言葉をそのまま待って80年後にやってきて、もうヨボヨボ。悲しいやら滑稽やら。
この80年というのは「ヤソ」で日本の神話では「たくさん」を表す聖数字です。だから実数ではなくて、「たくさん」を表しているだけでしょう。
歌の意味
歌は三輪の大神神社の巫女に恋をした男が、その巫女が老いていく姿を見る歌か、もしくは大物主とイクタマヨリビメの結婚(オオタタネコの出自・イクタマヨリビメとその両親の会話・三輪山説話・美和の由来)や大物主とヤマトトトヒモモソヒメの結婚(崇神天皇(十六)倭迹々姫命の婚姻と死・箸墓(日本書紀))のような「神と巫女の婚姻」が元ネタかと思われます。
まぁようは天皇が歌った歌じゃないってことです。そこは間違い無いです。
これまでの残虐な雄略天皇の伝承から打って変わって、なんだか「コメディタッチ」な物語。子供の頃に「嫁にしてやる」と言った言葉をそのまま待って80年後にやってきて、もうヨボヨボ。悲しいやら滑稽やら。
この80年というのは「ヤソ」で日本の神話では「たくさん」を表す聖数字です。だから実数ではなくて、「たくさん」を表しているだけでしょう。
歌の意味
歌は三輪の大神神社の巫女に恋をした男が、その巫女が老いていく姿を見る歌か、もしくは大物主とイクタマヨリビメの結婚(オオタタネコの出自・イクタマヨリビメとその両親の会話・三輪山説話・美和の由来)や大物主とヤマトトトヒモモソヒメの結婚(崇神天皇(十六)倭迹々姫命の婚姻と死・箸墓(日本書紀))のような「神と巫女の婚姻」が元ネタかと思われます。
まぁようは天皇が歌った歌じゃないってことです。そこは間違い無いです。
スポンサードリンク
SNSボタン
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocketページ一覧
雄略天皇(古事記)の表紙へ
- Page1 大長谷若建命の政治と后と子息子女について
- Page2 堅魚を上げている舎屋に火をつける
- Page3 道中に得た奇しいものだ。都麻杼比の品としよう
- Page4 引田部の赤猪子
- Page5 呉床居の 神の御手持ち 弾く琴に 舞する女 常世にもかも
- Page6 虻が腕を噛んで、その後すぐに蜻蛉がそのアブを食べて飛んで行きました。
- Page7 やすみすし 我が大君の 遊ばしし 猪の 病み猪の うたき畏み 我が逃げ登りし あり丘の 榛の木の枝
- Page8 悪事といえども一言。 善事といえども一言。 葛城の一言主の大神だ
- Page9 乙女の い隠る丘を 金鋤も 五百箇もがも 鋤き撥ぬるもの
スポンサードリンク