悪事といえども一言。 善事といえども一言。 葛城の一言主の大神だ

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悪事といえども一言。 善事といえども一言。 葛城の一言主の大神だ

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書き下し文

また一時、天皇、葛城の山に登り幸しし時に、百官の人等、悉く紅き紐を著けたる青摺の衣を給いて服たり。彼の時に、其の向える山の尾より山の上に登る人有り。既に天皇の鹵簿に等しく、また其の裝束の状、及び人衆、相似て傾かず。爾くして天皇、望みて問わしめて曰く、「茲の倭の国に吾を除きて王無きに、今、誰人ぞ如此て行く」。即ち答えて曰う状また天皇の命の如し。ここに天皇、大きに忿りて矢刺し、百官人等悉く矢刺しき。爾くして其の人等もまた皆矢刺しき。故、天皇また問いて曰く、「然らば其の名を告れ。爾くして各名を告りて矢を彈たん」。ここに答えて曰く、「吾先に問われつ。故に、吾、先ず名告爲さん。吾は惡事と雖ども一言、善事と雖ども一言、言離つ神、葛城の一言主の大神ぞ」。天皇ここに惶れ畏みて白さく、「恐し、我が大神。宇都志意美に有れば【宇より下の五字は音を以ちてす】覺らず」と白して、大御刀及び弓矢を始めて百官の人等の服せる衣服を脱がしめて以ちて拜み獻りき。爾くして其の一言主の大神、手を打ちて其の捧物を受けき。故、天皇の還り幸す時に、其の大神、山末に滿ちて長谷の山口に送り奉りき。故、是の一言主の大神は彼の時に顯れたるぞ。
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現代語訳

ある時、天皇が葛城野山に登って行ったときのことです。百官(モモノツカサ=役人・官僚)の人たちは紅い紐をつけた青摺(アオズリ)の衣を与えられて着ていました。そのとき、その(葛城の山の)向かいの山の尾根の山の上に登ってる人がいました。天皇の鹵簿(ミユキノツラ=天皇の行列)にそっくりで、その装束(ヨソオイ)の形や人衆(ヒトカズ=人数)もよく似て、同じようでした。天皇はそれを見て言いました。
「この倭国(ヤマトノクニ)に私を除いて王は居ない。今、誰がこのように(同じような服と人数の行列で)ここに居るのか?」
それに答える様子もまた天皇の命のようです。それで天皇は大いに怒って矢を番(ツガ)いました。百官(モモノツカサ)の人たちも全員、矢を番(ツガ)いました。その相手の人たちも矢を番ました。それで天皇はまた問いました。
「ならばその名を名乗れ!
互いに名を名乗ってから矢を撃とう!」
これに答えました。
「わたしが先に問われた。だから私がまず名乗ろう。
私は悪事といえども一言。
善事といえでも一言。
言葉を放つ神の葛城の一言主の大神だ」
天皇は恐れ畏み言いました。
「恐れ多いことです。我が大神。
宇都志意美(ウツシオミ=ウツシは現実に形を表すという意味。オミは「御身」か「臣」か)とは分かりませんでした」
と言って、大御刀(オオミタチ)や弓矢をはじめとして、百官(モモノツカサ)の人たちの着た衣服を脱がせて、拝んで献上しました。それでその一言主大神(ヒトコトヌシノオオカミ)が手を打って捧物(ササゲモノ)を受けました。天皇は帰るときに、その大神は山末(ヤマスエ=山の頂)にいっぱいになって長谷山口(ハツセノヤマグチ=長谷の山の登山口)まで見送りしました。この一言主大神はその時に姿を現しました。
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解説

葛城と天皇の関係を表すとされる
古事記(712年)では天皇と一言主の関係は一言主が上ですが、日本書紀(720年)では天皇と一言主が出会って一緒に狩りを楽しんだことになっています。797年続日本紀では天皇が高鴨神(一言主ではないかとされるが、味耜高根彦神とも)を土佐に島流しにしています。

よく葛城や加茂といった一言主を奉じた氏族の地位が下がったからという話だと言われますが、712年から720年の間に強い変化があったというよりは、古事記や日本書記の編者の立場や視点の違いじゃないかなぁ、と個人的には思います。
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