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水注く 臣の乙女 ほだり(秀樽)取らすも ほだり取り
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是の豊樂の日に、また春日の袁杼比賣、大御酒を獻る時に、天皇、歌いて曰く、
美那曾曾久 淤美能袁登賣 本陀理登良須母 本陀理斗理 加多久斗良勢 斯多賀多久 夜賀多久斗良勢 本陀理斗良須古
此は宇岐歌なり。
爾くして袁杼比賣、歌を獻りき。 其の歌に曰く、
夜須美斯志 和賀淤富岐美能 阿佐斗爾波 伊余理陀多志 由布斗爾波 伊余理陀多須 和岐豆紀賀斯多能 伊多爾母賀 阿世袁
此は志都歌なり。
天皇の御年は壹佰貳拾肆歳【己巳の年の八月の九日に崩りき】。 御陵は河内の多治比の高鸇に在り。
美那曾曾久 淤美能袁登賣 本陀理登良須母 本陀理斗理 加多久斗良勢 斯多賀多久 夜賀多久斗良勢 本陀理斗良須古
此は宇岐歌なり。
爾くして袁杼比賣、歌を獻りき。 其の歌に曰く、
夜須美斯志 和賀淤富岐美能 阿佐斗爾波 伊余理陀多志 由布斗爾波 伊余理陀多須 和岐豆紀賀斯多能 伊多爾母賀 阿世袁
此は志都歌なり。
天皇の御年は壹佰貳拾肆歳【己巳の年の八月の九日に崩りき】。 御陵は河内の多治比の高鸇に在り。
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現代語訳
この豊楽(トヨノアカリ)の日に、春日袁杼比売(カスガノオドヒメ)が大御酒(オオミキ)を献上したときに天皇が歌いました。
水注(ミナソソ)く 臣の乙女 ほだり(秀樽)取らすも ほだり取り 固く取らせ 下固(シタガタ)く や固く取らせ ほどり取らす子
宇岐歌(ウキウタ)です。袁杼比売(オドヒメ)が歌を献上しました。その歌が
やすみしし 我が大君の 朝戸には い寄り立たし 夕戸には い寄り立たし 脇机(ワキヅキ)の下の 板にもが 吾兄を
これは志都歌(シツウタ)です。
天皇の年は124歳で己巳年の8月9日に亡くなりました。陵は河内の多治比高鸇(タジヒノタカワシ=大阪府羽曳野市島泉)にあります。
水注(ミナソソ)く 臣の乙女 ほだり(秀樽)取らすも ほだり取り 固く取らせ 下固(シタガタ)く や固く取らせ ほどり取らす子
歌の訳(「みなそそく」は「臣」「鮪【シビ=マグロのこと】」の枕詞)臣の乙女に(酒を注ぐ)お銚子を持たせて、お銚子をしっかりと持たせて、しっかりと下を固く、固く持ちなさい。お銚子を持つ乙女よ。
宇岐歌(ウキウタ)です。袁杼比売(オドヒメ)が歌を献上しました。その歌が
やすみしし 我が大君の 朝戸には い寄り立たし 夕戸には い寄り立たし 脇机(ワキヅキ)の下の 板にもが 吾兄を
歌の訳(「やすみしし」は「我大君」の枕詞)我が大君は朝に寄りかかって立ち、夕方には寄りかかって立つ、脇息(キョウソク=時代劇に見る寝具の横にある寄りかかる小さな台のアレ)の下の板になりたいものです。お兄様。
これは志都歌(シツウタ)です。
天皇の年は124歳で己巳年の8月9日に亡くなりました。陵は河内の多治比高鸇(タジヒノタカワシ=大阪府羽曳野市島泉)にあります。
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解説
やすみしし
やすみししは「我が大君」の枕詞です。多分。
「やすみ」を「八隅」と書いた歌もあるので、「8方向全てにその力が及ぶ」というニュアンスです。「やすみしし」という言葉は新しい枕詞とされ、雄略天皇の時代には無かった、とも言われています。
吾兄を
「あせを」というのは「はやし言葉」ともされます。
愛する女性のことを「妹」とするのですから、「兄」は愛する男性のことでしょう。だからはやし言葉じゃないよ、ということではなく、両方の意味があったのだろうと思います。
雄略天皇の死
残虐な事件がありつつ、牧歌的な歌もあり、波乱万丈な124歳という長寿でした。雄略天皇というと中国の歴史書の「倭の武王」とされる天皇です。よって実在性が高いのに、124歳か。変ですよね。
日本は魏志倭人伝で「春と秋を持って年紀としている」と書かれていて、二倍歴ではないか?と思っています。つまり一年で二回年を取るのです。すると仁徳天皇以前の天皇の年齢がやたらと多い説明がつくのです。仁徳天皇(83歳)の次の履中天皇(64歳)反正天皇(60歳)允恭天皇(78歳)安康天皇(78歳)ところが雄略天皇は仁徳天皇の孫世代。急に二倍歴に先祖返りするのは変です。
推測ですが、雄略天皇の母、忍坂大中姫(オシサカノオオナカツヒメ)は九州との関係が指摘されています。雄略天皇は少年期に九州で育ったのではないか?と思います。日本が二倍歴から通常の暦になったといっても、それは中央だけで、地域によっては二倍歴が残っていた。そこで育った雄略天皇は二倍歴で124歳という長寿がカウントされちゃった。
それは別の意味もあったのではないかと。
雄略天皇は地方氏族の代弁者だった。中央は葛城氏の天下。それをひっくり返したのが雄略天皇だった。市辺之忍歯王(イチノヘノオシハワケノミコ)の殺害やその他皇族の殺害も地方氏族の代表としての「クーデター」と見れば分かりやすい。
その後、雄略天皇の息子の清寧天皇へと皇位が継がれますが、清寧天皇には子息が居らず、市辺之忍歯王(イチノヘノオシハワケノミコ)の子供達である顕宗天皇・仁賢天皇へと移り、おまけに雄略天皇に残虐な伝承が付与されたというのは、クーデター後にさらに揺り戻しがあって、中央へと権力が移ったと考えるべきではないかな、と思います。
やすみししは「我が大君」の枕詞です。多分。
「やすみ」を「八隅」と書いた歌もあるので、「8方向全てにその力が及ぶ」というニュアンスです。「やすみしし」という言葉は新しい枕詞とされ、雄略天皇の時代には無かった、とも言われています。
吾兄を
「あせを」というのは「はやし言葉」ともされます。
愛する女性のことを「妹」とするのですから、「兄」は愛する男性のことでしょう。だからはやし言葉じゃないよ、ということではなく、両方の意味があったのだろうと思います。
雄略天皇の死
残虐な事件がありつつ、牧歌的な歌もあり、波乱万丈な124歳という長寿でした。雄略天皇というと中国の歴史書の「倭の武王」とされる天皇です。よって実在性が高いのに、124歳か。変ですよね。
日本は魏志倭人伝で「春と秋を持って年紀としている」と書かれていて、二倍歴ではないか?と思っています。つまり一年で二回年を取るのです。すると仁徳天皇以前の天皇の年齢がやたらと多い説明がつくのです。仁徳天皇(83歳)の次の履中天皇(64歳)反正天皇(60歳)允恭天皇(78歳)安康天皇(78歳)ところが雄略天皇は仁徳天皇の孫世代。急に二倍歴に先祖返りするのは変です。
推測ですが、雄略天皇の母、忍坂大中姫(オシサカノオオナカツヒメ)は九州との関係が指摘されています。雄略天皇は少年期に九州で育ったのではないか?と思います。日本が二倍歴から通常の暦になったといっても、それは中央だけで、地域によっては二倍歴が残っていた。そこで育った雄略天皇は二倍歴で124歳という長寿がカウントされちゃった。
と、思ったけど年齢を考えると逆に雄略天皇までが「二倍歴」だったと考える方がしっくりしますね。
それは別の意味もあったのではないかと。
雄略天皇は地方氏族の代弁者だった。中央は葛城氏の天下。それをひっくり返したのが雄略天皇だった。市辺之忍歯王(イチノヘノオシハワケノミコ)の殺害やその他皇族の殺害も地方氏族の代表としての「クーデター」と見れば分かりやすい。
その後、雄略天皇の息子の清寧天皇へと皇位が継がれますが、清寧天皇には子息が居らず、市辺之忍歯王(イチノヘノオシハワケノミコ)の子供達である顕宗天皇・仁賢天皇へと移り、おまけに雄略天皇に残虐な伝承が付与されたというのは、クーデター後にさらに揺り戻しがあって、中央へと権力が移ったと考えるべきではないかな、と思います。
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