天武天皇(八十四)律令と法式・草壁皇子尊の立太子

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天武天皇(八十四)律令と法式・草壁皇子尊の立太子

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原文

二月庚子朔甲子、天皇々后共居于大極殿、以喚親王諸王及諸臣、詔之曰「朕今更欲定律令改法式、故倶修是事。然頓就是務公事有闕、分人應行。」是日、立草壁皇子尊爲皇太子、因以令攝萬機。戊辰、阿倍夫人薨。己巳、小紫位當摩公豊濱薨。

現代語訳

(即位10年)2月25日。天皇と皇后は大極殿(オオアンドノ)に居て、親王・諸王と群臣(マヘツキミタチ)を呼び寄せて、詔(ミコトノリ)して言いました。
「朕(ワレ)は今からまた律令(ノリノフミ)を定めて、法式(ノリ)を改めようと思う。共に、このことを修めなさい。しかし、急にこれだけを実務にすれば、公事(オオヤケワザ=公的な普段の仕事)ができなくなるだろう。人手を分けて行いなさい」
この日に草壁皇子尊(クサカベノミコノミコト)を立てて皇太子としました。万機(ヨロズノマツリゴト=すべての政治の実務)を摂(フサネオサメ=摂政)させました。
2月29日。阿倍夫人(アヘノオオトジ=天智天皇の妃=橘媛)が亡くなりました。
2月30日。小紫位の当摩公豊浜(タギマノキミトヨハマ)が亡くなりました。
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解説

草壁皇子尊
律令と法式を改めるように詔した日に草壁皇子を立太子するってのは、意味があるのでしょう。ここまで臣下に武器を準備するように促してきたのですが、この辺りから、「戦争」よりも、法律を整備することによって「安定」を目指していたのではないかと思います。次の天皇候補である皇太子を決めたのとセットになっているのは偶然じゃないでしょう。

ところで草壁皇子は「摂政」をしたと書いてあります。天武天皇が存命であるのに摂政というのは妙。天武天皇はここまで病気をしていますし、高齢ですから、すでに実務ができない状態だったのかもしれません。

現在は天武天皇即位10年。天武天皇が崩御するのが即位15年。その後は皇后である持統天皇に引き継がれます。すでにこの時点で皇后が即位する下地があったんじゃないかと思うのです。皇后に権力が移っていたのではないか?
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