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神功皇后(十五)尊く卑しき次第、まことにかくの如くなるべし
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一云、禽獲新羅王、詣于海邊、拔王臏筋、令匍匐石上、俄而斬之埋沙中。則留一人、爲新羅宰而還之。然後、新羅王妻、不知埋夫屍之地、獨有誘宰之情、乃誂宰曰「汝、當令識埋王屍之處、必敦報之。且吾爲汝妻。」於是宰信誘言、密告埋屍之處、則王妻與国人、共議之殺宰、更出王屍葬於他處。乃時取宰屍、埋于王墓土底、以舉王櫬、窆其上曰「尊卑次第、固當如此。」於是天皇聞之、重發震忿、大起軍衆、欲頓滅新羅。是以、軍船滿海而詣之、是時新羅国人悉懼、不知所如、則相集共議之、殺王妻以謝罪。
現代語訳
ある伝によると……
新羅の王を捕虜として、海辺に行き、王の臏筋(アハタコスチ=膝の骨と筋肉)を抜いて、石の上に匍匐(ハラバ=腹ばいに)しました。斬り殺して、沙(イサゴ=砂)に埋めました。一人を(新羅に)止めておいて、新羅の宰(ミコトモチ=大使)として神功皇后は日本に帰りました。
そうして後に新羅の殺された王の妻は夫の屍(カバネ=遺体)を埋めた場所を知らなかったので、一人で残った宰(ミコトモチ)に誘おうという心がありました。それで宰に誂(アトラヘ=相手を引っ掛けること)て言いました。
「あなたが、王の屍(コキシ)を埋めた所を教えてくれたならば、必ず厚く礼をしましょう。また、わたしはあなたの妻となりましょう」
それで宰(ミコトモチ)は誘いの言葉を受けて、密かに屍を埋めた場所を教えました。すぐに王の妻と(新羅の)国の人は、共謀して宰(ミコトモチ)を殺しました。さらに王の屍を出して別のところに葬りました。そのとき、宰の屍を取って、王の墓の土の底に埋めて、王の櫬(ヒトキ=棺桶)をその上に葬って言いました。
「尊いもの、卑しいもの、という順番に葬られている。
このような秩序であるべきだ」
それを天皇(どの天皇かは未詳)が聞いて、發震忿(イカ=怒り)って、大きな軍隊を起こし、新羅を滅ぼそうとしました。軍船は海に満ちるほどでした。このとき、新羅の国民はみな恐れ、不知所如(セムスベナシ=どうしようもない)状態でした。すぐに国民は集まって共謀して王の妻を殺して罪を謝罪しました。
新羅の王を捕虜として、海辺に行き、王の臏筋(アハタコスチ=膝の骨と筋肉)を抜いて、石の上に匍匐(ハラバ=腹ばいに)しました。斬り殺して、沙(イサゴ=砂)に埋めました。一人を(新羅に)止めておいて、新羅の宰(ミコトモチ=大使)として神功皇后は日本に帰りました。
そうして後に新羅の殺された王の妻は夫の屍(カバネ=遺体)を埋めた場所を知らなかったので、一人で残った宰(ミコトモチ)に誘おうという心がありました。それで宰に誂(アトラヘ=相手を引っ掛けること)て言いました。
「あなたが、王の屍(コキシ)を埋めた所を教えてくれたならば、必ず厚く礼をしましょう。また、わたしはあなたの妻となりましょう」
それで宰(ミコトモチ)は誘いの言葉を受けて、密かに屍を埋めた場所を教えました。すぐに王の妻と(新羅の)国の人は、共謀して宰(ミコトモチ)を殺しました。さらに王の屍を出して別のところに葬りました。そのとき、宰の屍を取って、王の墓の土の底に埋めて、王の櫬(ヒトキ=棺桶)をその上に葬って言いました。
「尊いもの、卑しいもの、という順番に葬られている。
このような秩序であるべきだ」
それを天皇(どの天皇かは未詳)が聞いて、發震忿(イカ=怒り)って、大きな軍隊を起こし、新羅を滅ぼそうとしました。軍船は海に満ちるほどでした。このとき、新羅の国民はみな恐れ、不知所如(セムスベナシ=どうしようもない)状態でした。すぐに国民は集まって共謀して王の妻を殺して罪を謝罪しました。
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解説
三国史記に対応した記述がある
ある伝、としているので本伝ではないのですが、この記述に対応すると思われるものが朝鮮の歴史書の三国史記に残っています。
三国史記には戦争に強い「于老」という将軍が登場します。しかしこの人物はある日、宴会の席で「倭の王を潮汲み人夫にし、王妃を炊事婦にする」と発言し、怒りを買って倭人に責められ、焼き殺されるのです。その後、この于老の妻が「倭人の大使」を宴会で泥酔させて焼き殺すという記述があります。
新羅の王とは?
当時の日本は「天皇を中心とした共和国」でした。一つの国というよりは、複数の国が共通の利益を求めて共闘する関係です。よって日本にとって「新羅」というのも「一つの国」という意味ではなく、吉備・筑紫といった一地域名だったと考えるべきでしょう。だから新羅の王は複数人いたと考えるべきです。日本の「王(ミコ)」がたくさん居たのと同じです。
儒教の思想
新羅王の妻が、日本の外交大使(宰)の屍体を下に埋め、その上に新羅王の屍体を葬ったことを指して、「尊いものと卑しいものの順に葬られている」としたのは儒教の考えです。
その一方で日本は「完全な儒教国」では無かった。神道の影響を強く残し、政治倫理として儒教を吸収していた。それは新羅の国に穢れ(ケガレ)にまみれた獣の屍体から作ったハケとムチを納めさせていることから分かります。日本はケガレを嫌うあまり、動物から作った工芸品を持つことが出来なかったのです。
ある伝、としているので本伝ではないのですが、この記述に対応すると思われるものが朝鮮の歴史書の三国史記に残っています。
三国史記には戦争に強い「于老」という将軍が登場します。しかしこの人物はある日、宴会の席で「倭の王を潮汲み人夫にし、王妃を炊事婦にする」と発言し、怒りを買って倭人に責められ、焼き殺されるのです。その後、この于老の妻が「倭人の大使」を宴会で泥酔させて焼き殺すという記述があります。
新羅の王とは?
当時の日本は「天皇を中心とした共和国」でした。一つの国というよりは、複数の国が共通の利益を求めて共闘する関係です。よって日本にとって「新羅」というのも「一つの国」という意味ではなく、吉備・筑紫といった一地域名だったと考えるべきでしょう。だから新羅の王は複数人いたと考えるべきです。日本の「王(ミコ)」がたくさん居たのと同じです。
儒教の思想
新羅王の妻が、日本の外交大使(宰)の屍体を下に埋め、その上に新羅王の屍体を葬ったことを指して、「尊いものと卑しいものの順に葬られている」としたのは儒教の考えです。
その一方で日本は「完全な儒教国」では無かった。神道の影響を強く残し、政治倫理として儒教を吸収していた。それは新羅の国に穢れ(ケガレ)にまみれた獣の屍体から作ったハケとムチを納めさせていることから分かります。日本はケガレを嫌うあまり、動物から作った工芸品を持つことが出来なかったのです。
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