筑紫の訶志比宮

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筑紫の訶志比宮

投稿日時:2018-05-27 16:18:39
漢字・読みツクシノカシイノミヤ
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訶志比宮

訶志比宮(カシイノミヤ)は古事記に登場する地名。もしくは施設名。日本書紀では橿日宮(カシヒノミヤ)と記述される。仲哀天皇が熊襲征伐に行く時に、まず山口県の下関の「豊浦宮(=現在の忌宮神社)」に滞在し、そこから博多の香椎宮に移動した。熊襲征伐の途中で仲哀天皇が死んでしまうと、豊浦宮で殯(モガリ=遺体を安置する)の儀式を行います。このことから、豊浦宮は前線ではなく、あくまで大和朝廷の勢力範囲に入っていて、訶志比宮(橿日宮)こそが前線ってことでしょうね。
比定地福岡県博多市東区の香椎宮(カシイグウ)
ところで香椎宮は8世紀には宮の前が「干潟」だと万葉集に見られます。ってことは現在は内陸気味ですが当時は海が近いか、むしろ目の前が海だったのではないかと。豊浦(忌宮神社)も橿日(香椎宮)も「港」だったのでしょう。まー、ここまで出張ってくるってことは船なのは間違い無いのですがね。騎馬民族なんてことはあり得ないってことです。
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引用

穴門の豊浦、筑紫の訶志比宮
帯中日子天皇(タラシナカツヒコ=仲哀天皇)は穴門の豊浦宮(トユラ)と筑紫の訶志比宮(カシイ)で天下を治めました。

神がかる、オキナガタラシヒメ
オキナガタラシヒメは、仲哀天皇が筑紫の香椎宮でクマソ討伐をしようとしていたとき、神がかりました。


仲哀天皇(九)伊覩県主の祖先、五十迹手と伊覩の地名説話
それで(即位8年1月の)21日に灘県(ナダアガタ=福岡県博多地方)に到着して、橿日宮(カシヒノミヤ)に滞在しました。

神功皇后(一)出自と夫の死後の対応
(仲哀天皇)即位9年春2月に足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト=仲哀天皇)が筑紫の橿日宮(カシヒノミヤ)で崩御しました。そのとき、皇后は天皇が神の教えに従わず早く崩御したことに心痛めて、祟った神を知って、財宝の国(=朝鮮半島)を求めようと思いました。それで群臣(マヘツノキミタチ)と百僚(ツカサツカサ=官僚)に命じて罪を祓い、過ちを改めて、代わりに斎宮(イワイノミヤ)を小山田邑(オヤマダノムラ)に作りました。

神功皇后(四)御笠と安の地名説話と田油津媛
(仲哀天皇即位9年3月)17日に皇后は熊鷲(クマワシ)を撃とうと思い、橿日宮(カシヒノミヤ)から松峽宮(マツオノミヤ=現在の福岡県朝倉軍三輪町粟田)に移りました。そのときに飄風(ツムジカゼ)がたちまち起こって御笠(ミカサ)が落とされました。そこでその時代の人はその場所を御笠(ミカサ)と呼んでいました。

神功皇后(十三)沙麼縣主の祖先の内避高国避高松屋種に神が
ある書によると…
足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト=仲哀天皇)は筑紫の橿日宮(カシヒノミヤ)に居ました。ここに神が現れて、沙麼縣主(サバノアガタヌシ)の祖先の内避高国避高松屋種(ウチツヒコクニツヒコマツヤタネ)に神がかって、天皇に教えて言いました。
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