成務天皇の功績

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成務天皇の功績

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原文

かれ、建内宿禰(タケシウチノスクネ)を大臣として、大国(オホクニ)・小国(オクニ)の国造(クニノミヤツコ)を定めたまひ、また国国の堺、また大県(オホアガタ)・小県(オアガタ)の県主(アガタヌシ)を定めたまひき。天皇の御年、玖拾五歳(ココノソトセアマリイツトセ)。乙卯の年の三月十五日に崩りましき。御陵は沙紀(サキ)の多他那美(タタナミ)にあり。

現代文訳

建内宿禰(タケシウチノスクネ)を大臣として、大国小国の国造(クニノミヤツコ)を定めました。

また国境を定めました。

また大小の県を定め、県主(アガタヌシ)を定めました。

成務天皇は95歳で亡くなりました。
お墓は沙紀(サキ)の多他那美(タタナミ)にあります。
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解説

これから非常に長く天皇に仕える賢臣の建内宿禰タケノウチノスクネ)が登場。長命とされますが、実際は一族のことだと思われます。

建内宿禰は孝元天皇の子、比古布都押之信命(ヒコフツオシノマコトノミコト)が山下影日売(ヤマシタカゲヒメ)を娶って産んだ子。また非常に多くの氏族の祖先となっています。それだけ有名人であり、重要な存在だったのでしょう。
参考:孝元天皇の子孫 建内宿禰の子孫

国と県
当時は日本の中に「国」があり、その中に「県」があったのですから、まぁ、今で言うところの「県」が古代の「国」で、「市町村」が古代の「県」という感じでしょうか。

その国の境を定めた。そこに今で言うところの知事を派遣した。そして県の境を定めて、そこに今で言うところの市長町長村長を派遣した、ということになります。つまり大和政権が日本の細かい部分に勢力を広げた、ということです。

もちろん事実かは別問題ですよ。
古事記にそう書いてありますよ。
ということです。

沙紀(サキ)の多他那美(タタナミ)
奈良県奈良市山陵町の古墳とされます。

個人的コラム

タケノウチノスクネの長命について
二倍年暦を採用しても300年以上は無茶苦茶。なぜこの人物は特別なのでしょうか。神と呼べるほどのフィクション性は無いです。二倍年暦を採用すれば天皇の長命は説明できます。こういう人がいると辻褄が合わない。しかし、古代の書物ですから多少のミスや辻褄の合わないことは当然です。目を瞑るべきか、否か。
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